幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

幕末四賢侯の一人「島津斉彬」を元予備校講師がわかりやすく解説

薩摩藩主となった島津斉彬

image by PIXTA / 5737880

1851年、ようやく念願の藩主となった斉彬は薩摩藩の富国強兵を勧めます。西洋の科学技術の研究や洋式産業の振興を図る集成館事業や身分を問わない積極的な人材登用で薩摩藩の力を強化しました。さらに、全国各地で力を蓄えた「雄藩」の藩主と連合し、国政改革に挑みます。そのためには、実力を持った人物が将軍になるべきだと考え一橋慶喜を将軍候補者として支持しました。

集成館事業

鹿児島市磯地区。ここに、島津斉彬がつくらせた洋式工場が集成館です。斉彬が集成館事業を始めた背景には、19世紀後半に積極的に東アジアに進出してきた欧米列強の存在がありました。

特に、1840年のアヘン戦争では東洋一の力を持つ清王朝がイギリス軍と戦って敗れます。アヘン戦争後に日本がイギリスなどの欧米列強の標的となるのではないかという不安は当時の知識人の多くが心配したことでした。

集成館事業で力を入れたのが製鉄や造船、紡績などです。斉彬は製鉄のために必要な反射炉を集成館の中に造らせました。また、機械工場も作らせ、西洋技術を急ピッチで取り入れようとはかります。

斉彬は単に軍事力の強化だけを目指したわけではありません。紡績業や食品製造まで集成館事業の中で扱わせました。産業育成まで視野に入れて西洋技術を研究している点が集成館事業の大きな特徴といえるでしょう。

人材登用

斉彬は人材の登用に力を入れました。もっとも有名なのは西郷隆盛の登用でしょう。西郷は斉彬の参勤交代に付き従い、江戸詰めの役人の一人になります。1854年4月、御庭方役に就任しました。この役は藩主の側近ともいうべき役職で西郷は斉彬と直接会話をするようになります。

西郷と斉彬の対話は外交方針や藩の運営など多岐にわたりました。斉彬との会話で西郷の見識が磨かれ、のちの維新三傑として成長する土台を築いたといってもよいでしょう。

斉彬は西郷の偏屈さに期待したといいます。他人の意見に同調してすぐに意見をかえてしまうような人は非常事態には対応できないと斉彬が考えていたからでした。また、大久保利通も斉彬によって登用されます。ほかにも、のちに家老となり久光を支えた小松帯刀を登用したのも斉彬でした。

雄藩連合の試み

江戸時代後期から幕末にかけて、藩政改革に成功した藩が力を持ちつつありました。有力な藩のことを雄藩といいます。調所広郷の藩政改革で財政再建を成し遂げた薩摩藩も雄藩の一つでした。

ほかにも、村田清風の改革で財政再建を果たした長州藩、藩主山内豊信の改革で力を伸ばした土佐藩、均田制による農地改革や反射炉鋳造による軍事力強化で幕末随一の力を持った佐賀藩、藩主松平慶永が人材登用や専売制の強化、洋式兵制の導入を行った越前藩などが代表的な雄藩として挙げられますね。

斉彬はこれらの雄藩と連携し老中阿部正弘に働きかけ幕政改革を行うよう主張しました。斉彬は幕府と朝廷が手を携える公武合体を推進し、幕府も諸藩も武力を蓄えたうえで開国するべきだと考え、雄藩の藩主らとの連携を強めます

次のページを読む
1 2 3 4
Share: