「寺子屋」はスゴイ!高い教育水準を支える庶民の学び舎
「寺子屋」とは、江戸時代の庶民のための教育機関。読み書きやそろばんなど、生活に役立つ学問や知識を広く教える学び舎として全国に点在していました。「士農工商」という厳しい身分制度があった江戸時代、庶民はただひたすら働くだけだったのでは?と思われがちですが、いやいやなかなか、日本の教育制度は充実していました。まずはそんな「寺子屋」の基本的な情報について考察していきましょう。
そもそも「寺子屋」とは何か?
「寺子屋」とは江戸時代の庶民のための教育機関です。
現代では総称して「寺子屋(寺小屋と書くことも)」と呼んでいますが、江戸時代当時は、「筆学所」や「手習指南所」などと呼ばれることもあり、名称は統一されていませんでした。
江戸時代より前の時代は、庶民が読み書きを習う機会は少なかったと考えられています。役所の通達文書や難しい書類など、困ったことがあると、たいていの人は寺のお坊さんに相談していたようです。
そして時代は進み、戦国の世が明けて天下泰平、江戸時代へ。戦に駆り出されることもなくなり、読み書きそろばんを習う余裕も。庶民たちの生活にも変化がみられるようになります。
「寺子屋」という名称の由来には諸説あるそうです。しかしおそらく、江戸時代より前の時代、庶民が物事を学ぶ場所と言えばまずお寺だったことから、このような呼び方が定着したのでは、と考えられています。
寺子屋は江戸初期から徐々に数が増えていき、江戸や大坂のような大都市だけでなく、地方にもたくさん存在していました。幕府や藩が管理していたわけではないので詳細な資料が少なく、正確な数は分かりませんが、江戸末期には少なくとも1万5千以上もの寺子屋があったと考えられています。
江戸後期、19世紀半ば頃の「江戸の寺子屋就学率」は70%以上と言われているのだそうです。イギリスやフランス、ロシアなど諸外国の都市と比較してもかなりの割合。江戸の町中では多くの人が寺子屋に通い、読み書きを学んでいたと考えられています。
「寺子屋」では何を教えていた?
寺子屋はあくまでも庶民のための教育機関であり、幕府や藩が管理していたわけではありません。
学問を教えることができる人がいて、人を集められる場所があれば、寺子屋は成立します。
すべての庶民が通わなければならないわけではなく、あくまでも任意。「学びたい」と希望する人が通うものであり、強制ではありませんでした。
そのため、決まったカリキュラムがあるわけでもなく、生徒の年齢もバラバラ。子供たちと一緒に大人が学ぶケースも少なくなかったようです。
そんな寺子屋で教えていた内容はというと、まず
・文字の読み書き
・そろばん、数の計算
・武道
・農業
・裁縫
・その他(歴史や地理、実生活に役立つ技術など)
といったことが挙げられます。授業は、朝早くからお昼過ぎくらいまで、という時間帯で行われるのが一般的だったようです。
ただ、これらをすべて教えていた、というわけではなく、生徒たちの年齢層や職業、家庭環境などが異なっており、それぞれ生徒たちに合わせて、柔軟にカリキュラムを組んでいたと考えられています。
「寺子屋」の講師はどんな人?
江戸時代、日本全国に広まっていった寺子屋。庶民のための学び舎であることはわかりましたが、では、どんな人が教鞭をとっていたのでしょうか。
先ほども述べましたように、幕府や藩が管理している機関ではないため、寺子屋を開くにあたって特に資格や免許は必要ありません。というか、そもそも、資格や免許制度はありませんでした。
教えることができる人がいれば、そこが寺子屋。
つまり、寺子屋の先生は無資格で、職業や役職が決まっていたわけではなかったのです。
幕府や藩の記録がないので詳細は不明ですが、おそらく、初期の頃、寺子屋の教師は寺院の僧侶が務めることが多かったと考えられています。
それに加えて、地主や裕福な農民、村役人、浪人、町人など、様々な身分・職種の人が寺子屋に携わっていたようです。
「授業料は野菜やお菓子」ということもあったとか。
このフットワークの軽さ、柔軟さが、寺子屋が全国的に普及した要因のひとつと言えそうです。
明治時代に入ってから「寺子屋」は?
寺子屋は庶民の教育の場として全国展開していきましたが、特に江戸後期の1830年代以降の増加数は相当なものだったと言われています。江戸だけでも、小規模なものも含めれば1000以上の寺子屋が存在していたのだそうです。
そして幕末から明治へ、社会情勢は大きく変化していきます。
1872年(明治5年)、江戸幕府に変わって新しくスタートした明治政府は「学制」と呼ばれる制度を開始。それまで自由に行われていた寺子屋教育に変わって、義務教育というものを施行し、全国展開。
これに伴い、全国各地に「小学校」というものが建設されていきます。
しかし、最初はなかなか整備が追い付かず、地域によっては寺子屋の設備を転用したり、寺子屋で教鞭をとっていた教師を起用したり、といったこともありました。
長きにわたり、庶民の学びの場として親しまれてきた寺子屋。近代日本の教育制度の確立にも、一役も二役もかっていたようです。
「寺子屋」とどう違う?「私塾」「藩校」「郷学」とは
寺子屋が、江戸時代の人々にとって馴染み深い場所であったことがよくわかりました。では次に、江戸時代のその他の教育機関との違いについて少しだけ触れておこうと思います。例えば歴史書物や時代小説などで「私塾」や「藩校」、「郷学」といった単語を目にしたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。これらと「寺子屋」との違いは?それぞれの特徴と併せて見ていきましょう。
「私塾」とは?著名な学者の元で学ぶ高度な学問所
私塾(しじゅく)とは、「私設の教育機関」のことです。
基本的には、著名な学者やカリスマ的人物が、自分の後継者を育成したり、弟子入り・入塾を志願する若者たちの面倒を見たりしながら形成されていった学問所、ということになります。
幕府や藩が設置した教育機関ではないので、位置づけとしては寺子屋に近い部分もありますが、カリキュラムは寺子屋のものと比べ物にならないほど高度なものでした。寺子屋が小学校なら、私塾は大学、といったところでしょうか。
講師の自宅や職場がそのまま教室になることもあったようです。
私塾と呼ばれるものがいつ頃から存在していたか定かではありませんが、数が増えたのは江戸後期に入ってから。特に幕末期には、当時の社会情勢を反映してか、数多くの私塾が作られ、優秀な人材が育成されていきました。
有名なものとしては、吉田松陰による松下村塾(しょうかそんじゅく)、シーボルトによる鳴滝塾(なるたきじゅく)、緒方洪庵による適塾(てきじゅく)などが挙げられます。
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