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幕末四賢侯の一人「島津斉彬」を元予備校講師がわかりやすく解説

率兵上京寸前の死

1858年8月、斉彬は井伊による大弾圧に抗議するため5,000の藩兵をひきいて京都に向けて上洛しようとしました。井伊直弼の安政の大獄に納得していないであろう孝明天皇や朝廷を動かして今回の措置を撤回させようとしたのかもしれません。

しかし、斉彬は兵をひきいて京都に向かうことはできませんでした。8月16日、斉彬は鹿児島城下で兵の訓練を観覧している最中に突如発病。8月24日に急死してしまったからです

斉彬の死があまりに突然だったため、暗殺説がささやかれましたが真相は今のところよくわかっていません。斉彬の藩主就任で隠居に追い込まれた斉興による暗殺や久光派の暗殺などもうわさされましたが、実際のところは不明です。ただ、斉彬の急死により薩摩藩の方針が幕府との対決から協調へと変更されたのは間違いありません。

斉彬死後の薩摩藩

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島津斉彬の急死により、一時的に斉興が藩政を預かりました。その後、斉彬の遺言に従い弟久光の子である忠義が薩摩藩主となります。藩の実権は久光が握りました。久光は幕末の政局を動かすキーマンとして活躍します。久光や薩摩藩が幕末に活躍できたのは斉彬の時代に行われた集成館事業を始めとする近代化政策や斉彬が登用した人材の力によるところが大きいですね。

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