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地上最強の大帝国「モンゴル帝国」とは?わかりやすく解説!

一番大きな国といえば今ではロシアということになりますが、一時期にはモンゴルが世界で一番大きい国となっていました。 モンゴルは13世紀にはモンゴル帝国として日本だけではなく世界を震え上がらせたそんな国だったのです。 今回はそんなモンゴル帝国について一体どうしてモンゴルが大帝国となっていったのかについてみていきましょう。

そもそもモンゴル帝国とはどんな国だったのか?ざっくりと解説!

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モンゴル帝国とは1209年にチンギス・ハンが遊牧民を統合した大英帝国と並ぶ領域を誇った帝国です。

元々はモンゴル高原のみをおさめている遊牧民族の部族連合でしたが、チンギス・ハンによって支配下に置かれていた金王朝や西夏、そして中央アジアの諸王国を滅ぼしていき、自分の息子や有能な家臣、さらには侵略して行く過程の中で家臣にした各部族の王たちと共に強力な軍事体制を敷いて、最盛期には東は朝鮮半島、西はポーランド付近まで領土を伸ばしました。

ちなみに、モンゴル帝国は中央集権的な国家ではなくて、初代皇帝であるチンギス・ハンの息子や家臣たちがそれぞれ分かれて集団を作っていました。その中でフビライ・ハンが統治していた地域を元と呼んでいるわけなのです。

モンゴル帝国の歴史

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このように最終的には大英帝国と肩を並べるほどの大帝国を築き上げたモンゴル帝国。

しかし、この帝国は一代によって成り立ったのではなく、数々の有能な家臣たちによって築き上げられた国でした。

チンギス・ハンの登場とモンゴルの統一

12世紀のモンゴル高原。この頃のモンゴル高原は北方を支配していた遼が金によって滅んだことによって遊牧民族の各部族が抗争を繰り広げる時代に突入して行くことになります。そんな中、12世紀も中盤に差し掛かると一部族の族長の息子が生まれることになりました。その男の名前はテムジン。モンゴル語で蒼き狼と呼ばれた彼こそが後のチンギス・ハンです。

テムジンは9歳の時に敵対するタタール族によって父親が毒殺。

偉大であった父親の死は弱肉強食の世界であったモンゴルでは大打撃なことであり、9歳の子供ではお話にならないと悟った家臣たちはみな裏切ってしまい、テムジンは頼れる人は母と弟たちしかいない過酷な生活を強いられることになりました。

しかし、テムジンはそんな生活の中でもリーダーとしての資質を身につけていき、成長した頃にはモンゴル高原の諸部族を続々と撃破。

そして、最後に西のナイマン族を打ち破るとテムジンはモンゴル高原を統一し、諸部族による有力者の会議であるクリルタイにおいて指導者と認められ、諸民族の上に立つ王様という意味のハンの称号が与えられ、チンギス・ハンがついに誕生したのでした。

(ちなみに、チンギスには支配者や猛々しいという意味が込められていると考えられていますが、実際のところはいまだに分かっておりません。)

中国への進出

こうしてモンゴル高原の諸民族を統一してモンゴル帝国を建設したチンギス・ハンでしたが、騎馬民族の野望はここにとどまることはなく、1211年になると元々北方の民族を抑えて巨大な統一国家を打ち立てた金王朝を打ち破るために中国に対する遠征を開始します。

しかし、流石のモンゴル軍であろうともこの頃には万里の長城には手も足も出ない。さらに金の首都であった中京(現在の北京)周辺には強固な城壁に守られていました。

 金はモンゴル部族の侵入から身を守るために必死に万里の長城の修繕を行っていきましたが、当時の万里の長城は今のようなものではなく(現在のものはもう少し後の明の時代に改築されたもの)、どちらかといえば騎馬隊や歩兵などが勢いづいて攻められないように積み上げた土塁のようなものでした。

金国が修復を加えたと言っても所詮は土塁。チンギス・ハンはこの万里の長城の弱さを見抜いて長城を見事に突破。

しかし、金の首都であった中京に迫る勢いでしたが、野戦では常勝していても、遊牧民族である彼らにとって攻城戦は未知の体験。

明らかにモンゴル帝国の方が分が悪く、城壁に囲まれた都を落とすことは難しかったようです。

しかし、チンギス・ハンは何度も攻め続けながら城塞都市の攻略方法のコツを掴み最終的には策略を使って金の将兵たちをおびき出して、1215年についに中京を陥落させることに成功するのでした。

西方への侵攻

こうして中国東北部を支配下に収めたモンゴル帝国でしたが、次に狙ったのは中央アジアでした。この頃の中央アジアには金に敗れたのちに西方に亡命した貴族によって建てられた西遼という国があり、中央アジアでは指折りの領土を支配していましたが、西遼にて国を揺るがす大事件が起きると国内の混乱に漬け込んだチンギス・ハンは西遼に侵攻。最終的には西遼を滅ぼして支配下に置くことに成功します。

また、滅ぼした西遼の西側に位置していたホラズム・シャー朝というイスラム王朝にも侵攻。

チンギス・ハンはこの侵攻の際にはジョチ、オゴデイ、チャガダイ、トゥルイなど自慢の自分の息子たちと共にホラズム・シャー朝を滅亡に追い込み、攻め込んだ都市で暴れ回ってことごとく破壊していきながら中央アジアを席巻。

さらに、ホラズム・シャー朝の生き残りの王族が西へ落ち延びているという情報を耳に入れるとチンギス・ハンはこれを追撃。

その行動範囲はついに中東方面にまで及び、このことでモンゴル帝国の領土は中国東北部から中東のイランまで飛躍的に広がり、チンギス・ハンの名はアジアとヨーロッパに轟くことになったのでした。

また、チンギス・ハンが西方の遠征に出ている間にモンゴル帝国に降っていた西夏というチベット系の王国が密かに金と内通していることをキャッチするのチンギス・ハンはすぐさま西方から体勢を整え西夏侵攻を開始。

西夏はこの侵攻にて壊滅状態に追い込まれてしまい、1226年に滅亡することになるのですが、チンギス・ハンはこの侵攻の際に危篤に陥ってしまい、65歳で亡くなってしまいます。

2代皇帝の時代のモンゴル帝国

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チンギス・ハンの死後、生前の勅令によってオゴデイが皇帝に即位。

チンギスハンの四男であるトルイと協力して1232年に金朝を完全に滅ぼして中国北部を完全に制圧するとオゴデイはモンゴルの中央部にカラコルムという新しい都を建設するなどモンゴル帝国の足がかりを構築していきます。

また、耶律楚材などの優秀な部下などを詰めフル活用して帝国内の重要拠点に駅を設けて駅伝制を作るなどこれまで遊牧民族であったモンゴルが帝国としての姿を見せ始めたのがオゴデイの時代でした。

また、この頃にはヨーロッパにも進出。ロシアを完全に制圧して1861年に1241年のワールシュタットの戦いではドイツ・ポーランド軍を完膚なきまでに叩き潰すなどの功績をあげました。

3、4代の時代のモンゴル帝国

ワールシュタットの戦いでヨーロッパ世界も制圧しかけたモンゴル帝国でしたが、この戦いの直後にオゴデイが崩御。その後グユクが皇帝に就任しますがわずか2年後に崩御することになりました。

この結果モンゴル帝国は分裂の危機を迎えることになり、4代目のモンケの時代には大理国などの国々を制圧していく一方で彼がなくなるとハイドゥの乱でモンゴル帝国はフビライハンの元とフラグのイル=ハン国、ハドゥが建国したキプチャク=ハン国、チャガダイが建国したチャガダイ=ハン国に分裂。しかし、この分裂は完全な仲違いではなく、元が主導している緩やかな連合体となったぐらいのものでした。

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