大正日本の歴史明治昭和

日本女子教育界のパイオニア「津田梅子」彼女の人生をわかりやすく解説!

3-4念願の仕事に就く梅子

Umeko Tsuda at graduation 1890.jpg
By 不明http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&nid=2201567, パブリック・ドメイン, Link

伊藤は学習院大学女子部を独立させ歌子の学校と合併した、新しい学校を作る相談を進めていました。これは、華族女学校といい国が設立する学校でした。国のお金で留学した梅子にとって、この学校で働くことが自分の使命と感じたようです。でも、任命されるか不安な毎日を送っていた梅子の元へ、帰国して3年経った1885年9月に朗報が舞い込みました。年棒420円の準奏任官で、教授補の職に任命されたのです。残念ながら、アメリカで厳しく育った梅子は生徒からは「怖い先生」というレッテルを貼られました。

1889年に梅子は、もっと勉強がしたいと2度目のアメリカ留学をしています。捨松がホームステイした先のアリス・ベーコンの進めによるもの。フィラデルフィアの名門女子大「ブリンマー大学」で、3年間生物学を学んでおり、生涯の友アナ・ハーツホンと出会っています。帰国後は、華族女学校に復職しました。

ちょっと雑学

華族女学校では、「怖い先生」といわれていた梅子ですが、実は学外活動にも力を入れていました。家には教え子が出入りし、おしゃべりやゲームを楽しんでいます。また、生徒たちにテニスを紹介したこともあったようです。厳しいだけでなく、楽しいことを教えるのも梅子の教育方針だったんですよ!

4.自分で学校を設立する梅子

Tsuda Umeko.gif
パブリック・ドメイン, Link

梅子は、男性に劣らない能力を持たせ女性に立派な働きをさせたいと、自身の学校を設立します。これが、有名な後の津田塾大学です。結構厳しい学校でした。

4-1梅子はヘレンケラーやナイチンゲールとも会っていた

梅子は華族女子大学から休暇をもらい、万国婦人連合大会の日本代表としてアメリカのデンバーを訪れました。大会後ジョージタウンで、ヘレンケラーと面会したのです。短い会見でしたが、梅子には思い出深い大切な時間となりました。ヘレンケラーから手渡しでもらったメッセージは、津田塾大学に保管されています。

梅子はこの訪問で、神様からもう一つのご褒美をいただきました。イギリスからの招待状が届き、政府が費用を負担する形でイギリスへの訪問も叶ったのです。この時、オックスフォードやケンブリッジなど歴史ある大学で講義を受けたり、名物のボートレースを見学したりと学生気分を味わうこともできました。帰国直前には、梅子の念願だったナイチンゲールに会うことも叶っています。女性を教育し看護という活躍の場を与えたナイチンゲールとの会見は、女子教育のための学校を新しく作りたいと考える梅子に大きな力を与えたようです

4-2 1日3時間。週5日のアメリカ式の学校

1900年に梅子は、父仙やアリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松らの協力もあり、「女子英学塾」という小さな学校を東京都麹町に開校しました。「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」をモットーに教育が行われています

学校で勉強する時間が、1日3時間と聞けばいいなぁ~と感じる人は多いでしょう。でも、アメリカ式に入学してからついて行くのが大変な学校でした。教育に厳しい梅子の学校なら、納得がいくはず。毎時間が真剣勝負で、学校の勉強について行くためには、予習と復習をそれぞれ2時間自分で勉強しなくてはいけないほどだったとか。

小さな学校で、梅子やアリスなどボランティアの教師に支えられながらの出発でした。最初の入学生は10人で、3年後に初めての卒業生を8人送り出しています。自由でありつつ厳しく充実した授業内容はすぐに評判となり、100人を超える入学者が門をたたくようになりました。しかし、関東大震災に合い学校が潰れるほどのダメージを受けます。

梅子の元で教師をしてくれていた友達のアナが、アメリカに帰国し50万ドルもの募金を集めてくれ、この危機を乗り越えることができました。震災後の梅子は体調を崩してしまい、1919年1月に塾長を辞任しました。10年後の1929年8月16日に鎌倉の別荘で、脳出血のために64歳で他界しました。梅子の死後19年経った1948年に女子英学塾は、津田英学塾、津田塾専門学校へ改称した後に、津田塾大学になりました。梅子のお墓は、津田塾大学の構内に建てられています。

明治時代の女子教育を牽引した梅子は、苦労は多くも幸せだったのではないでしょうか?

image by PIXTA / 50770605

自分で選んだとはいえ、たった6歳でアメリカ留学を経験した梅子。アメリカで11年も一緒に過ごした捨松と繁子は永遠の友となりました。「女性教育の大切さ」を唱えながら明治時代の女子教育を牽引した梅子の思いは、女子教育の名門津田塾大学において現在も受け継がれています。

1 2 3
Share: