名門武家の跡継ぎとして、中国地方制覇の野望を抱く
大内義隆の生まれた大内氏は平安時代から続く名門で、室町幕府との関係も深い重臣でした。そんな大内氏の頭領となった義隆は、積極的に周辺諸国へ進攻し、勢力を着々と広げていきます。同時に京都の公家たちを保護し、周防には京風の文化が花開き、文武両方で大内氏は最盛期を迎えることになりました。
名門・大内氏に生まれ、後継者に定められて育つ
大内義隆は、平安時代から続き、南北朝時代からは周防(すおう/山口県)に本拠地を置いた名門武家・大内氏に永正4(1507)年に生まれました。父は大内義興(おおうちよしおき)といい、室町幕府で将軍の後見人をつとめ、周防だけではなく長門(ながと/山口県西半分)・石見(いわみ/島根県西部)・安芸(あき/広島県西部)・筑前(ちくぜん/福岡県西部)・豊前(ぶぜん/福岡県東部、大分県北部)・山城(やましろ/京都府南部)の7か国もの守護(国の治安維持と行政を司る)を兼任するという幕府の「超」重鎮でした。
そんな名門・大内氏ですが、代々跡継ぎ問題が付いて回るという困った一族でした。大抵の場合、後継者争いが起こっていたのです。
ただ、義興は最初からそれを封じるため、義隆に嫡子が名乗る「亀童丸(きどうまる)」の幼名を与え、義隆こそ跡継ぎだと最初から周囲に知らしめたのでした。
こうして、後継者争いとは無縁で育った義隆ですが、もしかするとそれが彼をいまいち弱さのある人物に育ててしまったのかもしれないということを先にお伝えしておきましょう。
中国地方を席巻した大内氏
元服してからは父に従い、義隆は当時中国地方で勢力争いをしていた尼子氏(あまごし)との戦に明け暮れます。この頃の義隆は若者らしく血気盛んな武将だったようで、尼子氏との戦いでは毛利元就(もうりもとなり)を寝返らせ、天文9年の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)の戦いで尼子氏に勝利をおさめました。これで優位に立った義隆は、尼子氏の領地に積極的に攻勢をかけつつ、毛利氏を完全な従属下に置き、中国地方で並ぶもの無き勢力となったのです。
その一方では北九州にも進出しており、そこを制して大陸との貿易も盛んに行うようになりました。この時の義隆は、中国地方の制覇という野心に燃えていました。従う家臣たちも若き主君に心酔し、大内の兵は屈強をきわめたのです。
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「西の京都」と呼ばれた周防
応仁の乱によって京都が荒廃すると、公家たちは次々とツテのある戦国武将のもとに身を寄せるようになりました。大内氏は幕府とのつながりが深いことから公家とも交流があり、多くの公家が大内氏のところに逃げてきていたのです。義隆の正室も公家の娘でした。
こういうこともあって、周防の中心・萩(はぎ)の街は、京風の文化で満ち溢れ、その華やかさによって周防は「西の京都」とまで呼ばれるようになったそうです。また、後にフランシスコ・ザビエルも来訪しています。
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つまずきが綻びへと転じた出雲遠征
中国地方の制覇のためには、敵対する最大勢力・尼子氏を叩かねばなりません。しかし、尼子氏の本拠地・出雲(いずも/島根県)への遠征には、難色を示す家臣たちもいました。ただ、義隆は陶晴賢(すえはるかた)などの有力武将の後押しを受けて遠征を強行します。大軍をもって臨んだこの遠征ですが、ここで義隆は手痛い敗北を喫することになり、これが彼の運命の転換点となるのです。
一部の反対を押し切り、尼子討伐へ
尼子氏に対して攻勢をかけ続ける義隆は、ついに尼子の本拠地・出雲への遠征を画策します。しかし、内政を司る文治派(ぶんちは)からは反対の声が挙がりました。その一方で、武将たち武断派(ぶだんは)は遠征を強力に後押ししたため、義隆は文治派の反対を押し切り、出雲遠征を強行することになりました。
戦国時代で内政と軍事の担当が分かれている組織は、あまりありませんでした。文治派と武断派の存在が有名になったのは、もっと先の関ヶ原の戦いのころの豊臣政権です。
すでにこの時に文治派と武断派がいたということは、大内氏がいかに進歩的だったかがわかります。しかし同時に、内紛の火種が常についてまわるということも意味していました。