大正日本の歴史明治昭和

日本女子教育界のパイオニア「津田梅子」彼女の人生をわかりやすく解説!

2-2不安な毎日を過ごす留学生たち

23日かけてやっとサンフランシスコに到着しました。迎え入れたのは、ワシントン駐在弁務公使森有礼(もりありのり)でした。彼は後に、日本初の文部大臣になった人物です。残念なことに梅子たちの留学のプログラムは一切準備されておらず、英会話もままならない日々を過ごしていました。

年上の2人は、ホームシックにかかってしまい、渡米10ヶ月で帰国しました。残った3人は自らの事を「ザ・トリオ」と呼び、終生の大親友となり後に日本の女子教育に生涯をかけた梅子の人生に大きく影響しています。「アメリカ丸」に乗った時、梅子たちが教えられた英単語は、「Yes(イエス)」・「No(ノー)」・「Thank You(サンキュー)」くらいだったとか。これじゃあ、幼い子ならともかく、多感な少女期を迎えた女子なら誰でも不安になりますよね!

2-3アメリカ人家庭でホームステイをする梅子

残った3人は、別々の家庭でホームステイすることになります。梅子のステイ先は、日本弁務官で書記として働くワシントン市内在住のランマン家。チャールズとアデライン夫妻の間には子供がおらず、小さな梅子を「天からの授かりもの」と我が子のように育ててくれたようです。英語教育はもちろん、ピアノを習い、休日にはよく家族旅行にも出かけています。食事は父が農園で西洋野菜を作っていたこともあり困らなかったようです。

8歳になってスティーブン・セミナリーという小学校に通うようになった梅子は、勉強好きで天性の才女ぶりを発揮しました。英語の本を読みあさり、英作文もすぐに書けるようになっています。それを見たアデライン夫人は感心し、梅子の将来を本気で応援するようになったようです。日本の小学校に通えなかった梅子は、留学生としてはあまりにも小さすぎました。時が経つに連れて日本語を忘れてしまい、毛筆で書いていた日本への手紙を英語で書くようになります。仙が英語が読めたことは、梅子にとって運がよかったといえますね!

1873年2月に日本でキリスト教禁止令が解かれた数日後の事、誰に勧められるわけでもなくキリスト教の洗礼を受けたいとランマン夫妻に申し出た梅子はアメリカで洗礼を受けました。小学校卒業後は、ハイレベルの私学女子校アーチャー・インスチチュートに進学しています。アーチャーには当時の女子校では教えていない科目もあり、色々なことに興味を持つ梅子にはピッタリの学校でした。ラテン語やフランス語など語学はもちろん、数学、物理学、天文学や心理学を学び、音楽や絵画も勉強したようです。1882年に優秀な成績で卒業しました。梅子ら3人は熱心に勉学に励んだため予定より1年長くなりましたが、11年の留学期間を見事にやり遂げました。

3.留学を終え、帰国した梅子の人生

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By 不明http://vcencyclopedia.vassar.edu/index.php/Princess_Oyama, パブリック・ドメイン, Link

青春時代をアメリカで過ごした梅子ですが、実は日本への愛国心の強い女性です。帰国後は、華族女学校などで英語教師などをしており、64歳で生涯を終えるまで女性が社会進出し活躍できるよう人材育成に尽力しました。梅子は「日本女子教育の先駆者」と称される存在となっています。

3-1帰国後の梅子を悩ませた結婚問題

梅子が帰国したのは、17歳の事。アメリカ人女性の結婚適齢期は20歳でしたが、日本女性は15歳でした。ザ・トリオの3人の内、繁子は在米中に出会った海軍中尉瓜生外吉と結婚し、一度は塾を開こうと思っていた捨松も日本で女性が仕事をするのは難しいと悟り18歳も年上の陸軍中尉大山巌と結婚しました。

6歳で留学した梅子の帰国後の生活は大変でした。日本語をすっかり忘れており、正座もできなく靴を玄関で脱ぐこともままならない状態でした。何故か、箸を使うことはできたようです。アメリカ帰りの梅子を自慢に思う父仙に色々なところに連れて行かれるも、同じ年頃の女性のような立ち振る舞いができず疑心暗鬼に陥りました。次第に「引きこもり」のようになってしまったようです。

この頃の自分の状態を、アメリカの母アデラインへ宛てた手紙にこう記しています。

「言葉さえ簡単に取り戻せたらどんなに楽でしょうか。手足を縛られ、耳も聞こえず、口をきけないままのこのような状態で、生きて行かなければならないのでしょうか。」

心が痛いですよね~。だって、帰国後はお国のために働こうと思っていても、いざ帰国すれば女性には仕事がないという状態。父仙からは、「アメリカに留学させていただいたことに感謝して過ごすように。」と強く諭されていたのです。

3-2結婚より職業婦人

結婚をせずに仕事に人生を捧げる決意をするまでには、梅子も大変悩んだようです。時代の先端となる教育をしていると自負していた仙ですが、それ以上に娘に幸せな結婚をしてほしいと願うのは父親として最もな事。でも、梅子の心は父の思いとは逆に、「結婚するより、自由な女性の生き方の手本となりたい」と思うようになっていました。父仙だけでなく、ザ・トリオの他の2人やアデライン夫人も、梅子の将来を心配し結婚を進めました。当時の梅子は、結婚問題を「いまわしい話題」と比喩しています。

地位に恵まれた相手でも捨松のようには結婚をしたくないとも語っていました。お家に縛られた自由のない日本人女性の生き方に背き、アメリカ人女性のようにキャリアを積んで独立して生きる「ファーストレディー(各分野で指導的地位にある女性)」となる道を選んだのです。梅子だけは、留学生に課せられた本来の使命を果たしたということになります。責任感が強く生真面目な梅子ならではの選択だったといえるでしょう。

3-3帰国後の梅子を救ったのは伊藤博文だった

仕事先もままならないまま、帰国後1年が経ってしまいます。外務卿の井上馨の邸宅で、夜会が行われました。梅子も招かれ、気晴らしに出かけたのです。そこで後に日本初の総理大臣となる伊藤博文と出会います。先ほども触れましたが、伊藤博文は梅子が留学した時に、岩倉使節団に同行した人物です。この再会が、梅子の人生を一新します。

挨拶程度の短い再会でしたが、伊藤は梅子の事を心に止めていました。半月後に伊藤は、梅子が春から下田歌子が自宅で開いている「桃夭女塾(とうようじょじゅく・現:実践女子大学)」で教えるよう手配しました。桃夭女塾は、伊藤をはじめ政界の有力者や公家などの、妻や娘を学ばせるために、彼らの支援によって作られた学校です。伊藤博文や山県有朋の芸者上りの妻たちもここで学んでいます。歌子は梅子から英語を学び、梅子は歌子から書道や日本語を教わる、ウィンウィンの関係を築いたのでした。

また、「家に来て妻と娘に英語を教えてくれ!」と伊藤から頼まれました。更に外務卿の井上馨の留守を預かることになった伊藤は、梅子に通訳とアドヴァイザーの仕事も依頼し、伊藤家に住み込みで働くことになりました。

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