幕末日本の歴史江戸時代

多くの維新の志士を育てた「吉田松陰」その実像をわかりやすく解説

吉田松陰は、幕末へ向かう混沌とした時代に、日本の行く末を案じ翻弄した国司です。明治維新で活躍したたくさんの志士たちを育てた、教育者としてのイメージが定着していますね。楫取美和子を題材にした2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』でも、松陰の話は色々取り上げられています。それでは、国士「吉田松陰」の実像に迫ってみましょう。

1.吉田松陰とはどんな人?簡単に説明

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吉田松陰(よしだしょういん)は、長州藩(山口県)の藩士です。「緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)」、「広瀬淡窓(ひろせたんそう)の咸宜園(かんぎえん)」と並ぶ、日本三大私塾のひとつ「松下村塾(しょうかそんじゅく)」で敏腕を振るっています。松下村塾は3塾の中でも、優秀な人材を一番多く輩出したことでも有名です。吉田松陰のことを、日本を代表する教育者というイメージを持っている方も多いと思います。

また、日本に頻繁に訪れた黒船を見るために、長崎をはじめ江戸や東北をなどさまざまな地を放浪する旅に出ました。好奇心旺盛な松陰は、外国に興味を持ち、何度も密航を企て捕えられます。長州藩からも過激な思想を持つ人物として、レッテルを貼られてしまいました。短い一生の中で、これだけの経験をできたことは、松陰らしい幸せな生き方だったのかもしれません。

2.吉田松陰の幼少期

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吉田松陰は、杉家に生まれ吉田家へ養子にだされました。吉田家では、武士としての生き方を、徹底的に叩き込まれています。“朝起きて夜寝るまで武士であり、藩のため公のために生き、己を優先させることはあってはならない”と教え込まれたようです。

しかも、“休むことは、藩にお役に立つために学習する時間を無駄にすることだ”とも。これだけ厳しく育てられれば、死をも恐れないほど厳しい人物になっても当然でしょう。

2-1吉田家に養子に出された松陰

吉田松陰は文政3年(1830)に、長門国萩松本村(現:山口県萩市)の下級武士杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として生まれました。名前は吉田寅次郎(よしだとらじろう)。母の滝は、小さいころは、全く手のかからないいい子だったと語ったとか。3男4女と大所帯で百姓をしなければ食べていけないほど貧しく、4歳の時におじで長州藩山鹿流兵学師範吉田大助の養子となりました。5歳の時におじが亡くなり、大二郎と改名しています。

また、おじで師のひとり玉木文之進(たまきぶんのしん)には、武士としてのスパルタ教育を受けました。文之進はかなり厳しい人で、体罰も日常茶飯事だったようで、後に弟子たちに「あんなひどい目に遭って、よく死ななかった」と洩らしたようです。あまり弱音を吐く人物ではなかったようですが、このことだけは…。妹の美和も「兄が逃げ出してくれればいいのに」と、歯がゆく思っていたと語っています。実は、松下村塾を作ったのは文之進で、松陰は塾の名前を引き継いでたくさんの幕末志士を育てました。

2-2成績優秀で早くに師範となった松陰

天保9年(1838)の8歳の時に、明倫館に教授見習いとして出仕します。9歳で、明倫館の兵学師範となりました。10歳の時に藩主毛利慶親の前で講義をし、見事に才能を認められています。藩主の要求で講義することは、全く異例なことで周囲を驚愕させたとか。

それほど、明倫館における松陰の評価が高かったことを象徴するエピソードです。また、20歳までに6回も御前講義をしており、松陰への期待が高かったことも見てとれます。先ほども少し触れましたが、松陰が12歳の時に文之進が「松下村塾」を開き、後見人となったのです。もちろん、後にこの塾を継ぎます。

この松下村塾は、2015年にユネスコ世界遺産に選ばれた『明治日本の産業革命遺産』のひとつです。考えてみると後世まで語り継がれる名塾は、ここから始まり明治維新でも活躍する多くの塾生たちが巣立って行ったんですね。

2-3山田亦介に学ぶよう勧められる松陰

13歳で長州軍を率いて西洋艦隊撃滅演習を実施したことも有名で、15歳の時には大河ドラマにも出てきた「山田亦介(やまだまたすけ)」から長沼流兵学を学んでいます。松陰の師のひとりで、江戸に行き見聞を広めた山田宇右衛門の勧めによるものでした。

宇右衛門は江戸で見た2つの事件を、松陰に話聞かせています。西欧の偉大さを人々に広めようと尽力した高野長英や渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判し、無駄に世間を不安にさせたという罪で、天保10年(1839年)5月に幕府の牢に入れられた事件。これは「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」と呼ばれています。もうひとつ、清がイギリスの間に起った阿片戦争(あへんせんそう)で、中国がコッパに負けたことなど、長州では知り得ないことを江戸で見聞きできたというもの。

亦介に松陰を託したのは、山鹿流に拘っていては、どんなに力があっても周りから取り残されると松陰の行く末を心配したためでした。

3.遊学の旅にでる松陰

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21歳になった松陰は、兵学者となっていました。海防や地形、経済などをよその地に行き他藩で学びたいと藩主に願い出ました。松陰の講義を見ていた藩主は、もちろん色々なことを学んできてくれるだろうと期待を寄せ承諾しました

3-1友人との出会いと遊学を満喫する松陰

松陰は、まず長崎へ行き九州への遊学をしました。その後江戸に訪れ、東北へも足を延ばしています。江戸では、長崎の遊学で出会った熊本藩士の宮部鼎蔵(みやべていぞう)と再会し、佐藤一斉の「朱子学のみの反動」、安積良斉の「西洋学は防備のためには知っておくのも必要とする中間派」、佐久間象山の「積極的に西洋学を取り入れる進歩派」の学問に触れました。その後、脱藩となり人生を狂わす東北への遊学に宮部鼎蔵らと行ったのです。

鼎蔵は、松陰より10歳年上でした。彼は、「民・百姓が汗水たらして作った米を、働きもせず威張り散らして食い潰してきた武士に「義」があるとは思えない。」と語っていたようです。元治元年(1864)の池田屋事件で新選組に襲われ絶命しています。遊学で二人の心に残ったのは、帰路に着く途中の江戸間近の街道で見た野一面に咲くタンポポだったとか。

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