2-3.石山本願寺に味方し、織田軍を苦しめる
1568年に上洛を果たした織田信長は、三好三人衆らを畿内から追い落として京都周辺を確保しました。ところが1570年になって逆襲に転じた三好三人衆は、現在の大阪市北区にあたる野田・福島に砦を築いて抵抗する態度を示します。
そして野田・福島の陣の中には孫市も傭兵として参加していたのです。一進一退の戦況となるも、やがて三人衆らに味方した石山本願寺が突如として兵を挙げ、織田軍の背後から襲い掛かりました。
呼応して孫市ら雑賀衆も得意の鉄砲戦術を生かして織田軍を撃破し、これを敗走させることに成功したのでした。これが10年余に及ぶ石山合戦の始まりとなったのですが、信長にとって孫市は最大の宿敵となったのです。
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2-4.親織田派となった孫市
一向一揆を扇動する石山本願寺に味方した孫市率いる雑賀衆は、多くの者が一向宗に帰依していたため、本願寺の大きな戦力となります。
雑賀衆の鉄砲戦術によって、信長ですら狙撃されて負傷するなど織田軍は長きにわたって大いに苦しみました。そこで1577年、雑賀衆の本拠を襲うべく織田の大軍が編成されたのです。
対する雑賀衆らは紀ノ川や各地の城を防衛拠点として必死に防戦に努めました。また少数のメリットを生かしたゲリラ戦を展開し、戦いはついに泥沼の膠着状態に陥ったのです。
織田軍はいつまでも紀州に兵を置いていくわけにもいきません。形ばかりの和睦が取り交わされ、なんとか雑賀の危機は去りました。孫市はこの時から親織田の立場を鮮明にしていたようです。
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2-5.秀吉と反目する雑賀衆
1580年、石山本願寺が信長に屈服し、長く戦い続けてきた石山合戦は終焉を迎えました。そして紀州鷺森に本願寺座主顕如上人を迎えます。
1582年6月に信長が本能寺の変で亡くなり、ようやく紀州にも平穏が訪れるかと思いきや、時代の流れは風雲急を告げることとなりました。親織田派だった孫市は、信長の死によって立場を失い紀州を離れることとなりました。
やがて信長の後継者となった羽柴秀吉は、柴田勝家や織田信孝など織田の有力者を次々に滅ぼして覇権を握り、ついに徳川家康と対峙したのです。
秀吉は雑賀衆による紀州の独自支配を認めようとはせず、あくまで中央集権体制による統一を目指していました。それに反発した雑賀衆らは、家康に味方し、秀吉を背後から脅かす気配に出たのです。
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2-6.雑賀衆の終焉
小牧の役を経て家康と和睦した豊臣秀吉は、いよいよ向背定かならぬ雑賀衆と根来寺に対して討伐の軍を起こすこととなりました。
1585年3月、10万ともいわれる豊臣軍は紀州へ向けて南下を開始し、千石堀城をはじめ雑賀・根来連合軍が籠る拠点を次々に潰していきます。やがて紀州へ乱入し、雑賀をはじめ根来寺・粉河寺などが炎上し、灰燼に帰しました。
最後まで抵抗を続けていた雑賀衆の一つ太田党は、太田城に籠って抵抗を続けていました。この時、案内役を務めていた孫市は、城兵たちに対して降伏するよう説得を試みますが失敗。ついに秀吉による水攻めを受けたのです。
結局は首謀者の首を差し出して降伏を余儀なくされますが、ここに戦国最強の鉄砲集団雑賀衆は終焉を迎えることとなりました。
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2-7.雑賀孫市のその後
実質的に雑賀衆が消滅したあと、孫市は鉄砲大将として秀吉に仕えていますね。秀吉死後も豊臣家に仕え続け、関ヶ原合戦の前哨戦となった伏見城の戦いでは、城将鳥居元忠を討ち取るという大功を挙げています。
戦後は改易となって浪人。やがて水戸藩士として水戸徳川家に仕えますが、ここまでの事績は不明な点が多く、判然としないというのが実情です。
すでに紀州粉河寺で暗殺されたという説や、秀吉在世の頃には亡くなっていて、水戸徳川家に仕えたのは息子だったという説もありますから。
伝説や伝承の類が多く、その正体がわからない孫市だからこそ想像が掻き立てられる部分があるのですね。
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