2-8.雑賀孫市の活躍を痛快に描いた「尻啖え孫市」
歴史小説の巨匠司馬遼太郎が描いた戦国痛快エンターテイメント作品ですね。
「明るく、派手で、女好き」で自由を愉しみ、誰にも邪魔されず、己の思うがままに生きる雑賀孫市。戦いはとてつもなく強いが、金以外では誰の味方にもならない自由奔放な男です。
そんな孫市は、ある日、京の町で一人の女性に惚れ込みます。惚れたはいいが、フタを開けてみれば実は一向宗門徒だったというオチ。最初は一向宗そのものを否定するものの、次第に信仰の自由を求める人たちのために立ち上がる孫市。
織田軍との激戦、知略に富んだ鉄砲戦術、そして紀州で織田の大軍を迎えての決戦など、読み終えた頃にはむしろ清々しく感じられる作品となっています。
新装版 尻啖え孫市(上) (講談社文庫)
Amazonで見る3.雑賀衆の光と影
日本有数の鉄砲傭兵集団となった雑賀衆。実は彼らの中には大勢の一向宗門徒がいました。一向一揆の総本山である石山本願寺が脅威に晒された時、雑賀衆もまた立ち上がったのです。「雑賀孫市」の項でも触れましたが、ここからはもう少し詳しく見ていきましょう。
3-1.野田・福島に砦を構える雑賀衆
1568年に畿内を掌握し、姉川合戦にも勝利した織田信長でしたが、三好三人衆などがまだ反撃の機会をうかがっており、予断を許さない状況でした。
そんな中、一向宗の総本山「石山本願寺」は、なるべく信長を刺激しないよう矢銭(軍事費)の要求にも応えて、おとなしく支払うなどしていましたが、徐々に織田側との関係は険悪になっていました。
そんな時、四国へいったん敗走していた三好三人衆が再び上陸し、野田と福島に砦を構えて反撃の態勢を取ったのです。雑賀衆らも3千ばかりの兵と共に在陣していました。
3-2.石山合戦はじまる
信長は素早く反応し、凄まじい攻撃力で三好方を蹴散らしたかに見えました。しかし異変が起こったのはこの時のこと。なんと本願寺座主顕如が突如、織田軍への攻撃を指示したのです。
顕如は門徒たちに対して「頼み参らせる」と檄文を発しており、「このまま織田を放置しておけば、本願寺はいずれ潰される!」と危機感を抱いていたのです。
その効果はてきめん。一向一揆は織田軍の側背を衝き、ようやく三好方は危機を脱しました。近江(現在の滋賀県)で浅井・朝倉連合軍が動き出したとの報を受け、信長も撤退し、戦いはいったん終わりを告げます。
実はこの時に織田軍に雇われていた雑賀衆もたくさんいたそうですが、これ以降は本願寺に味方して一致団結するようになりました。
3-3.第一次紀州征伐
石山合戦が始まってから7年。雑賀衆の抵抗で何の打開策も見いだせなかった信長は、ついに雑賀衆の本拠地を強襲することを決心しました。(第一次紀州征伐)
7万ともいわれる大軍が紀州に迫り、雑賀衆らは対抗するために、紀の川の川底に桶や壺などを沈めて進軍を少しでも遅らせようとします。
実は雑賀衆といえども一枚岩ではなく、一向宗を信仰していない土豪もいましたし、反織田ではない土豪も存在していました。彼らは戦闘には参加せず、むしろ傍観していた節さえ見られますね。
3-4.膠着状態に陥った戦い
数的劣勢を鉄砲の火力でカバーしようとする雑賀衆は、各地で織田軍に多大な犠牲を強いて抵抗しました。雑賀衆の善戦によって一進一退の戦況となり、決定打が出ないまま戦闘は膠着状態に陥ったのです。
雑賀衆はいったん降伏しますが、その後の信長の処置は寛大なものでした。
雑賀衆のゲリラ戦術によって損害が増えるいっぽうであったこと。石山本願寺の補給線を断ち切ればそれで良かったこと。他の戦線から多くの兵を引き抜いて編成したため、いつまでも大軍を拘置できないこと。などが理由に挙げられますね。
いずれにせよ、この戦いの後も雑賀衆は石山本願寺に味方し続けたわけですから、信長の紀州征伐は失敗だったといえるかも知れません。
3-5.雑賀衆内部で内紛が勃発
第一次紀州征伐が終わり、ようやく石山本願寺の抵抗力にも陰りが見え始め、それから3年後に顕如は石山から退去しました。ところが雑賀衆にとって内紛が勃発したのはその頃のこと。
紀州征伐による織田軍の実力を認めざるを得なかった雑賀孫市は、急速に信長に近付きます。
逆に雑賀衆の有力者の一人だった土橋守重は根っからの信長嫌い。徐々に対立を深めていきますが、信長の支援を得た孫市は素早く守重を暗殺。さらに守重の一族も間髪入れず攻め立てて滅ぼしてしまいました。
孫市にとって誤算だったのは、本能寺の変で信長が亡くなったことでした。後ろ盾を失ったことで土橋派の復讐を恐れた孫市はすかさず逃亡。結局は羽柴秀吉の懐へ飛び込むことで事なきを得ました。
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3-6.第二次紀州征伐
孫市がいなくなったことで反織田派が主導権を握り、続く秀吉政権に対して反抗的態度を取るようになったのです。同じく鉄砲集団だった根来衆と連携し、しばしば秀吉勢と小競り合いが繰り返されました。
小牧長久手の戦いで徳川勢とケリをつけた秀吉は、後顧の憂いを絶つべく、いよいよ本格的な紀州征伐に乗り出しました。(第二次紀州征伐)
10万という大軍で南下した秀吉軍は、雑賀衆や根来衆たちの鉄砲による多大な損害が出たものの、かつての織田軍とは違い、損害を度外視して攻撃できるほどの陣容を備えた秀吉軍にとって、もはや彼らは敵ではありませんでした。
また降伏した者には寛大な措置が取られましたが、武器などはすべて没収したそうです。兵農分離を推し進める秀吉政権にとって、民衆が武器を持つことを禁じるのは自然なことでした。
4.雑賀衆の謎に迫ってみよう
雑賀衆に関する史料が極端に少ないため、彼らの活動や事績の多くは謎に包まれたままです。しかし、彼らはどうやって大量の鉄砲を手にすることができ、あれだけの強さがあったのか?それらの謎を解明していきましょう。