室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる戦国最強の鉄砲集団「雑賀衆」-歴史系ライターがわかりやすく解説

4-1.雑賀衆が大量の鉄砲を持っていた謎とは?

雑賀衆が持っていた鉄砲の数は8千挺ともいわれ、あの織田信長ですら、それだけの数を揃えることは不可能だったとされています。

通説では、長篠合戦で織田軍が使った鉄砲の数は3千挺とされていますが、それは江戸時代に編纂された甫庵信長記のみの記述で、実際には1千挺くらいがせいぜいだったのでは。というのが最新の歴史研究の流れですね。

しかしなぜ雑賀衆がそれだけの大量の鉄砲を保有できたのか?たかだか7万石の所領に過ぎないのに、なぜ調達するだけのカネがあったのか?謎は深まるばかりです。

4-2.大量の鉄砲を手に入れた秘密は「海」にアリ

その答えは海にありました。雑賀衆の本拠地は、前述の通り紀の川河口の海に面した場所。天然の良港を備えています。

そう、彼らは独自の水軍を編成しつつ海運業によって経済的に潤っていたのですね。太平洋に面した立地を生かして東海~関東へ荷を運び、西国へは瀬戸内海を通過して遠く九州にまで荷物を届けていたのです。

海運業で財をなした雑賀衆。大量の鉄砲を手にできた秘密は他にもあります。鉄砲の一大産地が近隣にあったこと。隣の根来でも鉄砲を製造していましたし、雑賀から北にある堺でも多くの鉄砲が作られていました。

また、硝石は火薬の原料となりますが、これは日本では産出しないもの。これも海外からの輸入に頼らざるを得ないわけで、雑賀衆は財力にモノをいわせて堺の商人から大量に硝石を購入していました。

そして強力に武装した雑賀衆たちは、傭兵集団として各地の戦国大名たちに雇われ、その名を高めていったのです。

瀬戸内海を支配していた村上水軍が、雑賀衆に海上通行を認めた「過所船旗(かしょせんき)」が重要文化財として現存しています。

 

瀬戸内海を支配した能島村上氏の当主武吉が向井弾右衛門尉に発給した、自己の海上勢力圏を航行する船舶に通航許可を認めたことを示す、通航証的機能を付与した旗です。

受給者の向井弾右衛門尉は、戦国期に紀伊国で勢力を持った有力国人連合、雑賀衆の一員と目される商人の一面を持つ武士でした。

雑賀衆は優れた鉄砲隊を有し、諸大名の傭兵として知られましたが、本来は本拠の紀ノ川流域、河口部、紀淡海峡を起点に瀬戸内から九州に至る海上を行き交う海運業を営んだ集団としての側面を持っていました。

引用元 文化庁「国指定文化財等データベース」より

4-3.その後、雑賀衆はどうなった?

秀吉による紀州征伐のあと、帰農する者や、新たに大名に仕官する者たちが相次ぎ、雑賀衆は急速に瓦解していきました。

その後の雑賀衆に関して、こんな逸話があります。

豊臣秀吉が朝鮮出兵をした頃、雑賀衆の一部は加藤清正に仕えていて、朝鮮半島へ渡りました。ところが、秀吉の残酷な行為に反発して数百人の鉄砲衆たちが離反して、朝鮮義勇軍として民衆を助けたといいます。

そのリーダーの名は沙也可(さやか)といい、その後も戦災で荒れ果てた朝鮮の復興に尽力したとのこと。現在も沙也可の末裔たちが友鹿洞という村に暮らしているそうですね。

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では沙也可という者は何者だったのか?謎は深まりますが、実は「雑賀衆の関係者」というのが有力で、たしかに「さやか」と「さいか」で語呂が似ているところがありますよね。

和歌山市内には、南海電鉄紀ノ川駅の近くに【沙也可顕彰碑】が、平井中央公園には【沙也可生誕の地】という碑が建っています。

世界的に見ても稀有な雑賀衆の存在

image by PIXTA / 1134518

日本が戦国時代だった当時、雑賀衆ほど大量の鉄砲を保有していた集団は、世界的に見ても皆無でした。鉄砲傭兵集団としての雑賀衆は、わずか30年程度しか存在しませんでしたが、日本史に残る戦国ガンマンたちとして長く語り継がれているのです。

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明石則実