幕末日本の歴史江戸時代

実業家と天文学者の二つの顔を持った偉人、伊能忠敬の生涯とは

江戸時代後半の寛政年間から文化年間にかけて作成された日本地図「第日本沿海輿地全図」。この地図を見たヨーロッパ人たちはあまりの正確さに驚愕しました。この地図を作成するため全国各地を測量した人物が伊能忠敬(いのうただたか)です。この地図はそれまで日本にあった地図とは比べ物にならないほど正確なものでした。しかし、伊能忠敬は学者の家系に生まれたわけではありません。彼の前半生はビジネスにささげられていたのです。今回は実業家と学者の二つの顔を持った伊能忠敬の生涯についてわかりやすく解説します。

実業家、伊能忠敬

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伊能忠敬は現在の千葉県にあたる上総国小関村に生まれました。彼はのちに地域の名家である伊能家に婿入りし、当主の早死になどで停滞していた伊能家の家業を盛り立てます。それだけではなく、事業の多角経営にも乗り出し成功を収めました。天文学者になる前、実業家として伊能忠敬についてみてみましょう。

生い立ち

伊能忠敬は1745年、上総国小関村の名主の家に生まれました。6歳の時に母が亡くなった時、入り婿だった父は小関家から離縁され実家である神保家に戻ります。忠敬は10歳まで祖父母の下で育てられたのち、父に引き取られました。忠敬が育った家は名主だったので、読み書きそろばんなどは一通りできたと考えてよいでしょう。

父の実家である神保家にもどってから、寺で算盤を習ったり、地元の医者に医学を習ったともいわれます。いろいろなことに興味を持つ学習意欲が高い青年だったようですね。

忠敬は17歳の時に下総国(こちらも現在は千葉県)の佐原村の酒造家である伊能家に婿入りします。忠敬が婿入りした理由は、伊能家と神保家の共通の親戚である平山家が忠敬を推薦したからでした。推薦の理由は、平原家が行った土木工事の監督として忠敬を使ったところ、とても働きぶりが良かったからです。

名主としての活躍

伊能家があった佐原村は現在の千葉県香取市佐原のこと。佐原は水運によって栄えた町で北総の小江戸とも称される美しい街並みが現代でも残っています。霞ヶ浦にも近く、利根川を利用した水運で栄えた水郷の街でした。

忠敬が伊能家に婿入りしたのは17歳の時。地域の名家をついだことから、若年で名主後見となります。忠敬は親戚の伊能豊明の助けも借りつつ、名主としての務めを果たしました。

忠敬が名主となったのは36歳の時です。名実ともに村の指導者となった忠敬は天明の飢饉の際、指導者として活躍しました。天明の飢饉は東北・関東を中心に死者90万人以上を数える大災害でしたが、佐原村では餓死者を一人も出しません。その理由は、忠敬が苦しんでいる人々に食料を貸し与えたり、流入する窮民に金を与えて別な地に移らせるなど適切な対策を行ったからでした。

伊能家のビジネス拡大

忠敬が伊能家を継いだ時、伊能家の家業は停滞していました。伊能家の当主や後見人が相次いで亡くなったからです。伊能家は広大な田畑を持つだけではなく、酒や醤油の醸造を営む豪農でした。醸造業は多額の資金を必要としますので、それを営めるというのは当時としては相当のお金持ちだと考えてよいでしょう。

忠敬は伊能家の持つ経済力や佐原の豊かな生産力を背景に、大消費地江戸に進出。江戸の問屋を開業して大きな利益を上げました。それだけではなく、薪問屋の運営や金融業などにも事業を拡大。多角経営によって伊能家の収益を伸ばします。

忠敬が家業を継いでから10年後には伊能家の経営は上向きました。忠敬が48歳で隠居した時、伊能家の収入は彼が婿入りした当時と比べて4倍近くにも増えていたといいます。忠敬には人を率いる能力やビジネスセンスがあったようですね。

伊能忠敬の生きた時代

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伊能忠敬が生きた18世紀後半から19世紀前半、日本は大きな転換点を迎えつつありました。幕政の主導権は田沼意次から松平定信と定信に同調した老中たち(寛政遺老)へとうつります。ヨーロッパ列強の艦船が日本周辺に出没し、対外的な危機感が高まりつつありました。幕府は相次ぐ外国船来航に対処するため、蝦夷地直轄をおこないます。こうした時代背景が忠敬の地図作成事業を後押しすることになりました。

田沼政権から寛政の改革へ

18世紀後半、10代将軍徳川家治の下で老中として政権の座にあったのが田沼意次でした。田沼は株仲間を公認するなど積極的に商業資本を活用します。田沼時代の後半、天明の大飢饉が発生しました。

飢饉の原因は冷害や浅間山の大噴火です。浅間山の火山灰は関東・甲信越地方に降り積もり、噴煙は太陽を覆い隠して冷害を招きました。天災の頻発は田沼にとって逆風となり、家治の死とともに失脚します。

かわって政権の座に就いたのが松平定信でした。定信は農村復興や倹約、飢饉対策などを主とする寛政の改革を実行します。定信の厳しい改革は反発を招き、1793年には失脚しますが、定信の政治路線はその後の老中たちに引き継がれました。

相次ぐ外国船の接近

日本国内で田沼政治や寛政の改革が行われているころ、ヨーロッパ諸国は世界各地に植民地を広げつつありました。そのため、日本近海にも外国船が出没します。

1792年、ロシア使節のラクスマンが蝦夷地の根室に来航し通称を要求。1804年、ロシア使節レザノフが長崎に来航し再び通称を要求しましたが幕府は拒否しました。1808年にはイギリス軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎に侵入。長崎奉行が責任を取って切腹する事件が起きます。さらに1811年にはロシア艦長ゴローウニンが国後島で捕らえられる事件が発生。

これらの事件は国内で海防論が高まるきっかけとなりました。と同時に、海岸防衛のための正確な地図の必要性も高まります

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