ヨーロッパの歴史ロシア

ロシアに20年近く君臨する「プーチン」登場の背景と政権を元予備校講師が解説

1990年代、ソ連崩壊後のロシアでは混乱が続いていました。ロシアでは平均寿命が低下し、死亡率が高まったほどです。傷だらけとなったかつての超大国ロシアを復活させたのがプーチンでした。プーチンは資源企業を国有化し莫大な富を国家に蓄積させます。大国ロシアの指導者として今もニュースにたびたび登場するプーチンについて、元予備校講師がわかりやすく解説します。

若き日のプーチン

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プーチンはかつてのロシア帝国首都でソ連第二の都市だったレニングラードに生まれます。父は熱心な共産党員でした。スパイにあこがれを持ったプーチンはKGBへの就職を志し、1975年にKGBの職員となりました。1990年にKGBを退職後、レニングラード市長サプチャークのもとで政治に携わるようになります。

少年時代の家庭環境とKGBへの就職

プーチンの父は筋金入りの共産党員。第二次世界大戦にも従軍しました。プーチンの二人の兄はいずれも戦争中に亡くなっています。少年時代はあまり裕福ではなく、共同アパートで過ごしました。子供のころは問題児でしたが、小学校を卒業するころには変化し、柔道やサンボを習います。

小説を見てKGB(ソ連国家保安委員会)のスパイ活動へのあこがれを持ったプーチンはKGB支部を訪問しました。その後、プーチンはレニングラード大学の法学部に入学。大学卒業後にKGBからスカウトされて職員となりました。ソ連共産党への入党がKGB就職の条件だったので、プーチンはソ連共産党員となります。

KGBでは諜報活動をおこなう部署に配属され、東ドイツで諜報活動に従事しました。このとき、のちにレニングラード市長となるサプチャークと仲良くなります。

政界進出

1990年、プーチンはKGBを退職。レニングラード市の有力者となっていたサプチャークのもとで働きます。1991年、レニングラード市はサンクトペテルブルクと改称。サプチャークがサンクトペテルブルク市長に当選しました。プーチンはサプチャークのもとで副市長をつとめます。

このころ、陰の実力者という意味で「灰色の枢機卿」とよばれました。サプチャークが選挙に敗れ市長職を退くとプーチンも副市長を辞めます。

その後、ロシア大統領府にスカウトされ、大統領府総務局次長となりました。プーチンはエリツィン政権で要職を歴任するようになります。

1998年、プーチンは大統領府第一副長官に就任。同年にロシア連邦になってKGBから仕事を引き継いだFSB(ロシア連邦保安庁)の長官に就任します。

プーチン登場の背景

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対外的には無名だったプーチンは1999年8月に第一副首相に就任。同日にステパーシン首相が解任されたため、プーチンは首相代行となります。プーチンが異例の出世を遂げた背景にはソ連崩壊後の混乱したロシアの情勢がありました。プーチン登場直前のロシアの政治状況についてまとめましょう。

ソ連の崩壊とエリツィン政権

1991年8月、ペレストロイカやグラスノスチを進めたゴルバチョフに対し、行き過ぎた改革を抑えるべきだと考えた保守派がクーデタを決行しました。クーデタ派に拘束され力を失ったゴルバチョフにかわって保守派と対決したのはロシア連邦大統領だったエリツィンです。

エリツィンはモスクワ市民の先頭に立ってクーデタに反対。エリツィンはクーデタ派の戦車兵に対してクーデタをやめるよう説得します。エリツィンの呼びかけに応じた市民たちは最高会議ビルに立てこもり、クーデタ派と対決しました。

その結果、クーデタ派は敗北。ゴルバチョフも権威を失ってソ連大統領を辞任します。エリツィン大統領はベラルーシやウクライナとともに独立国家共同体の設立を宣言。ロシアの新しい時代がはじまりました。

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