ドイツナチスドイツプロセイン王国ヨーロッパの歴史神聖ローマ帝国

5分でわかる!分断と統一の「ドイツ」の歴史をわかりやすく解説

今ではヨーロッパの中で一二を争う大国であるドイツ。ソーセージとビールのイメージが強い国ですが、この国は度々世界に大きな影響を与える大事件を起こしている国でもあるのです。 そこで今回はそんな世界を度々騒がせている困った国であるドイツの歴史を始まりから現在までをサクッと総ざらいしていきましょう!

東フランク王国とドイツの始まり

今でこそヨーロッパの中で一番経済力のある大国ですが、古代ローマ時代は鬱蒼とした森林が延々と続きゲルマン人という民族が住んでいました。ちなみにこの地域のことをローマ帝国側はゲルマニアと呼んでおり、今のドイツの英語読みであるGermanyの語源となっています。

話を戻しますが、そんなゲルマン人が住んでいたドイツでしたが、ローマ帝国が衰退するとゲルマン人はヨーロッパ一帯を支配。ゲルマン人の一族の一つであるフランク人がカロリング朝を建国し、フランク王国が成立しました。さらに8世紀に入るとカール大帝と呼ばれる王様が今のフランスとイタリア一帯を支配し、ヨーロッパの国々の源流を作っていきます。そしてカール大帝亡き後の870年にメルセン条約によってフランク王国は3つに分裂。その一つである東フランク王国が今のドイツの地域を支配するようになり、ドイツの原型となりました。

神聖ローマ帝国の誕生

こうして誕生した東フランク王国でしたが、残念なことにこの王国は911年に断絶。フランケン家が引き継ぎ、いつしか東フランク王国内の領主による体制へと変わっていきました。今でこそ国家というしっかりとした組織がありますが、この頃は王様は領主の中でもちょっと強大な人という認識であり、王様の権限はまだまだ弱いものだったのですよ。

では、この頃のヨーロッパでは誰が偉かったのかというとそれはキリスト教のトップであるローマ教皇でした。今でこそカトリックで一番偉い人ですが、昔は強大な権力を持っていたのですね。

そんなこんなでレヒフェルトの戦いで異民族を追い返したことによって教会から認められたザクセン朝のオットー1世は教皇からローマ皇帝の称号をもらい、962年にいわゆる神聖ローマ帝国が誕生しました。

皇帝と教皇が争った叙任権闘争

こうして神聖ローマ帝国が誕生しましたが、この神聖ローマ帝国はのちに『この帝国は神聖でもなければローマにもなく、さらに帝国ですらない』とけなされるように皇帝の権威がとんでもないぐらいに低いものだったのです。まぁ、最初の頃はローマを支配していましたし、教皇から任命されていたため神聖な感じはありますが、そんな神聖ローマ帝国も11世紀に入ると神父に任命する権利である叙任権を獲得のために教皇と皇帝がどんどん対立していきます。

皇帝からすればこの叙任権を手に入れれば領主の寄り合い所帯だった帝国もまとめられると考えていたのでしょう。しかし、教皇も叙任権を手放そうとはせず当時の教皇のグレゴリウス7世はハインリヒ4世を破門。一気にハインリヒ4世は窮地に追いやられます。しかし、ハインリヒ4世はこの状況対して会えて教皇に三日三晩雪が降る中で謝罪するいわゆるカノッサの屈辱によってこの危機から脱出。そしてその直後に教皇に対してクーデターを起こし新しく教皇を立てて教皇よりも皇帝のほうが権威のある神聖ローマ帝国の最盛期を築き上げました。

【ちょっとした豆知識】教皇の破門ってどれぐらいのものだったの?

神聖ローマ帝国の皇帝ですらカノッサの屈辱みたいな謝罪をせざるおえない状態となってしまった破門。でもたかが破門ぐらいでなんでそんな戦々恐々したのでしょうかね?

実は、この頃の教皇は上にも書いた通りその気になればヨーロッパ全域を支配する権力を持っており、教皇から破門される=ヨーロッパ全体が敵に回るといっても過言ではありません。つまり教皇敵対した勢力に対して破門宣告すれば例え皇帝であろうがその時点でジ・エンドになるレベルの権力を持っていただったのですよ。

皇帝が全然いません!!大空位時代

こうして教皇よりも強大となった神聖ローマ帝国。しかし、時代が下るとこの帝国は領主による合議制の国だったこともあってどんどん弱体化していきました。さらに1256年に当時の帝国を治めていたシュタウフェン朝が断絶すると17年の間皇帝がいないという大空位時代が訪れるようになります。こうなると皇帝の権威自体もどんどん低下していき、この時期から領主の権力がどんどん増えていき帝国とは言えなくなっていきました。

プロテスタントが誕生した宗教改革

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時代は一気に進み16世紀。この頃のキリスト教の社会は一言で表すと『堕落』がぴったりであるぐらいボロボロでした。教皇は免罪符をうってお金儲けし、神父は普通に妻を持つなどキリスト教の教えを全く無視していましたのです。こんな状態に激怒したルターは1517年に『95か条の論題』を発布して信仰によって救われると教皇に真っ向から反発。ルターは当時新技術としてヨーロッパに伝来した活版印刷を使用して聖書をドイツ語翻訳して新教(今のプロテスタント)を完成させました。そしてこのルターの動きがドイツにカトリックとプロテスタントの争いにつながっていき、三十年戦争に繋がっていったのでした。

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