ソビエト連邦ロシア

なぜソ連は崩壊した?ソ連崩壊の理由とその後をわかりやすく解説解説

1923年からロシアの大地を支配していた世界初の社会主義国家であるソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)。この国はかつてはアメリカと並ぶほどの強大な力を持つ超大国と知られていましたが、1991年に崩壊することになります。 どうして超大国と呼ばれていたソ連が崩壊してしまったのか?今回はそんなソ連が崩壊していった理由についてみていきましょう。

ソ連崩壊までの序章

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ソ連の崩壊は1日にしてなったわけではなく、ある程度の緩やかな段階を踏んだ上で起きてしまったものでした。

まずは、ソ連がどうして崩壊の道を歩んでいくことになってしまったのか?フルシチョフ時代末期からゴルバチョフが書記長に就任するまでの歴史を見ていきましょう。

ブレジネフの登場

1964年、この年キューバ危機以降核戦争を起こさせないためにアメリカに対して協調路線をとっていたフルシチョフが失脚に追い込まれてしまい、その後を受けてブレジネフが書記長に就任します。

ブレジネフは社会主義全体のためであれば一国の主権を制限することができるという制限主権論(ブレジネフドクトリン)を提唱。

フルシチョフが頑張って築き上げたアメリカをはじめとした西側諸国への協調は打って変わって、1968年にチェコスロバキアで起こった民主化運動に軍隊を派遣して鎮圧します。

これによって西側諸国は大激怒。ソ連に対して対決姿勢を取っていく様になり、さらにはベトナム戦争によって新冷戦という新しい時代の幕が上がります。

社会主義の停滞

ブレジネフ時代は社会主義の進歩を目指していましたが、民衆の目には全く違う形で影響が出ることになります。まず、社会主義というシステムが「民衆が働いた財を国民全体で振り分ける」というものだったことによって労働者の意欲は低下。「同じ給料だったらやってられねーよ!」と生産力はガタ落ちとなってしまい、敵である西側諸国の輸入を頼らなければならない事態に追い込まれてしまいます。

さらには、政府の力がかなり強いこともあってか政府内で汚職が頻発。特権階級の腐敗が目立つ様になってしまい、西側諸国で劇的に進んでいた技術革新も全くみられないなどまさしく粛清によって隠し通されてきたソ連の欠点が噴出していく様になりました。

さらにソ連は国力にそぐわない軍事力を保有しており、1979年にはアフガニスタンに侵攻を開始。

この侵攻によって西側諸国からの制裁を受けてしまう様になり、さらに生産力の低下でただでさえ危なかった財政が一気に破綻に追い込まれてしまいました。

指導者の相次ぐ交代

1979年にアフガニスタンに侵攻してソ連の財政は一気に悪化していく様になるのですが、この場面にてこれまでソ連を指導してきたブレジネフが死去。その跡を継いだアンドロポフも高齢であった上に持病持ちだったこともあり一年ほどで死去。さらにつぎのチェルネンコも一年ほどで亡くなってしまいます。

わずか3年で目まぐるしく変わっていく指導者。ソビエト共産党はこの事態を危惧したのかつぎの指導者に若きエリートを選ぶことになりました。

こうして1985年ゴルバチョフが就任。終わりの始まりとも呼べるソ連の改革が始まることになるのです。

ペレストロイカの開始

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ゴルバチョフが書記長に就任したのち、彼はソ連の状況に驚愕しすぐさま改革を開始。

ソ連の地位をなんとか保つためにペレストロイカという改革を行なっていくことになります。

その代表的なものがペレストロイカ(新規立て直し)でした。

このペレストロイカによってこれまでロシア共産党の一党独裁状態であったソ連の政治体制はガラッと変わり、複数の政党を認め最終的には民主的な選挙の導入と大統領制を導入。

中国の様にある程度の市場制度も導入していきソ連を緩やかな社会主義国家への変えていこうとしたのでした。1988年にはこれまでソ連の財政を苦しめていたアフガニスタンから撤退。

ソ連はこうしてゴルバチョフにより新しい道を歩んでいくことになると思いきや、事態は一気に急変していくことになるのです。

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