フランスヨーロッパの歴史

ユダヤ人であるが故に起きた冤罪事件「ドレフュス事件」を元予備校講師が分かりやすく解説

1894年、東アジアで日清戦争が起きていたころ、フランスではユダヤ系フランス人のドレフュス大尉がスパイ容疑で逮捕されました。ドレフュス逮捕の背景には第三共和政が抱えていた弱さと反ユダヤ主義があります。文豪のエミール・ゾラらはドレフュスの無罪を訴えるなど、フランスでは国論を二分する事態に発展しました。今回は、ドレフュス事件の背景、経緯、その後に与えた影響などについて、元予備校講師がわかりやすく解説します。

ドレフュス事件の背景

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ドレフュス事件が起きる20年以上前、フランスはプロイセン(のちのドイツ)との普仏戦争に敗れ、アルザス・ロレーヌ地方を奪われました。敗戦の末に成立した第三共和政は軍国主義者が起こしたブーランジェ事件や、フランス国内で起きた反ユダヤ主義の動きに翻弄されます。ドレフュスが逮捕される前のフランスについてみてみましょう。

普仏戦争での敗北

1870年、フランスはスペイン王位継承問題でプロイセンと対立していました。空位となったスペイン王位を誰が継承するかについて争っていたのです。プロイセンは王家であるホーエンツォレルン家の一員をスペイン王に据えようとします。

しかし、フランス皇帝ナポレオン3が激しく反発。ホーエンツォレルン家の王子がスペイン王になることを阻止しました。それだけではなく、ナポレオン3世は大使をプロイセン王のもとに派遣し、スペインの王位継承に介入しないことを迫りました。

このやり取りをプロイセン王国宰相のビスマルクが利用。プロイセン国民の反仏感情を高めました。

1870年7月ナポレオン3世の宣戦布告により普仏戦争が始まりました。入念に戦争準備を続けていたプロイセン軍は各所でフランス軍に勝利。スダン(セダン)の戦いでナポレオン3世はプロイセン軍の捕虜となります。

第三共和政の成立

スダンで捕虜となったナポレオン3世は退位。フランス臨時政府はプロイセンと講和します。この時、フランスはプロイセンに対し多額の賠償金支払いとアルザス=ロレーヌ地方の割譲を認めました。フランスとすれば屈辱的敗北です。

臨時政府が行った屈辱的講和に反対するパリ市民はパリ=コミューンを組織し、労働者の政権を樹立します。臨時政府はプロイセン軍(プロイセン王はドイツ国王に即位したので、以後、ドイツ軍)と協力しパリ=コミューンを弾圧し倒しました。

その後、フランスではティエールを首班とする第三共和政が成立します。しかし、アルザス=ロレーヌ奪還を訴える右派と、労働者のための政治を主張するフランス社会党などの左派が対立したため、第三共和政は不安定な政権となってしまいました。

ブーランジェ事件

第三共和政が成立してから20年の月日が過ぎ去りました。フランスは普仏戦争の痛手から立ち直り、国力を回復します。右派と左派の対立は相変わらず続いていました。対外的にはビスマルクのフランスを包囲する外交により、孤立しています。

1886年、フランスのフレシネ内閣は陸軍大臣としてブーランジェ将軍を起用しました。ブーランジェ将軍は対ドイツ強硬論を強く主張し、普仏戦争の復讐をするべきだと主張したため、復讐将軍というあだ名がつけられます。

1887年、ドイツ領となっていたロレーヌ地方でフランス人警官がドイツ側に拉致されるシェネヴレ事件が発生しました。ブーランジェ将軍は即時、軍事行動を起こすべきだと主張し、交渉で解決しようとした首相や外務省の方針と対立。罷免されました。

第三共和政政府の弱腰を批判していた人々はブーランジェ将軍を担ぎ出し、クーデタで権力を握ろうとします。フランス政府はブーランジェ将軍を逮捕しようとしたので、ブーランジェ将軍は亡命しました。

ヨーロッパに吹き荒れる反ユダヤ主義の嵐

フランスに限らず、キリスト教世界ではユダヤ人に対する迫害が繰り返し起きていました。ユダヤ人がキリスト教徒に禁じられた金融業(金貸し)で利益を上げていたのも迫害の理由ですね。ペストなどの疫病流行やスペインでの異端審問など、何かのきっかけがあればユダヤ人は迫害の対象になりがちでした。

1870年から1880年のユダヤ人排斥論が高まります。これを反ユダヤ主義、またはアンチセミティズムといいました。1881年、ロシアでは皇帝アレクサンドル2世が暗殺されます。このとき、犯人として疑われたのがユダヤ人でした。

ロシアでは15,000人ものユダヤ人が殺害されます。こうした組織的なユダヤ人迫害・虐殺をポグロムといいました。フランスにおいても反ユダヤ主義の風潮は強まります

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