鳥羽伏見の戦いでの敗北
1867年、王政復古の大号令が発せられると薩摩・土佐などを主体すとる新政府が樹立されます。新選組は京都から伏見へと拠点を移しました。勢力を増す新政府に対し、徳川慶喜は兵を京都に進めることを許可。鳥羽伏見の戦いが始まりました。
鳥羽方面に進出した旧幕府軍は優勢な薩摩藩の火力に押され、前線を突破することができません。新選組が所属していた伏見方面では、陸軍奉行の竹中重固が伏見奉行所を本陣として部隊を展開。薩摩・長州の兵は奉行所を包囲する布陣でした。
会津藩兵や土方率いる新選組は高台に布陣した薩摩軍に突撃します。激戦のさなか、薩摩軍が放った大砲が伏見奉行所の弾薬庫に命中し炎上しました。勢いがついた薩摩軍は旧幕府軍を猛攻撃。総司令官の竹中重固は部隊を置き去りにして逃亡してしまいます。
これにより、旧幕府軍は総崩れ。徳川慶喜が大坂城を脱出したことで近畿での戦局は完全に新政府軍に傾きました。新選組を含む旧幕府軍は東へと敗走します。
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甲陽鎮撫隊の結成と近藤の死
鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府軍は徳川追討を宣言。有栖川宮熾仁親王を東征大総督として江戸へと軍を差し向けます。錦の御旗を掲げた官軍の前に、東海道の諸藩は相次いで開城。江戸へと迫りました。
その一方、中山道からは別動隊が江戸へと進撃します。旧幕府陸軍総裁の勝海舟は新選組局長の近藤勇に甲州鎮撫(山梨方面の総司令官)を命じました。新選組は甲陽鎮撫隊と改名し、200名余の兵をひきいて甲府城を目指します。
この時、近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と称しました。官軍を率いる土佐藩迅衝隊司令官板垣退助は甲陽鎮撫隊に先んじて甲府城を占拠。官軍と甲陽鎮撫隊は勝沼で激突しました。
土佐藩精鋭部隊である迅衝隊の前に、隊士の数を減らし新兵で補わざるを得なかった甲陽鎮撫隊は一日で敗北。その後、近藤は新政府軍にとらえられ処刑されました。
箱館戦争への参戦と土方の死
勝沼での敗戦後、新選組は会津へと逃れます。土方は新選組と別行動で大鳥圭介らの旧幕府陸軍と合流。宇都宮城を攻め落とすときに活躍しました。
宇都宮城を官軍に奪還された土方らは会津で戦いを続けます。会津戦争では新選組は母成峠の戦いに参加しますが敗北しました。
会津藩の敗北が決定的となると新選組は土方ら仙台に逃れて抵抗を続けるものと、斎藤一ら会津藩に残って戦いを続けるものに分裂。斎藤ら会津藩残留組は会津戦争後に降伏します。
土方らは仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流し蝦夷地にわたりました。1868年10月、旧幕府軍は箱館五稜郭を占拠。さらに土方らは松前城を陥落させ蝦夷地を制圧します。
1869年、官軍が箱館に進撃してくると土方らは一本木関門を死守。戦いのさなか、土方が銃弾に倒れると旧幕府軍は総崩れとなり五稜郭へと撤退します。土方を失った新選組は弁天台場で降伏。新選組の歴史に幕が下ろされました。
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武士よりも武士らしく振舞おうとした新選組
新選組に参加した人々は、全員が先祖代々の武士だったわけではありません。リーダーの近藤勇や土方歳三にしても、農村の出身でした。そのため、武士たちからは常に批判的な視線を浴びたことでしょう。ならず者集団とみなされないため、厳しい局中法度を定め内部統制に努めたのも武士以上に武士であろうと努めたからかもしれませんね。
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