幕末日本の歴史江戸時代

武士よりも武士らしくー「新選組」の足跡について元講師がわかりやすく解説

新選組の誕生

1863年9月25日、壬生浪士組は名前を新選組と改めます。新撰組の入隊資格は特になく、志があり健康なものは誰でも入隊することができました。

新選組は主に祇園から伏見にかけての警備を担当します。新選組の隊士たちは袖口にダンダラ模様を染め抜いた浅葱色(水色)の羽織を着用した服装が有名ですね。

主な武装は刀と槍でした。新選組といえば「誠」の旗も有名ですね。赤字に金か白で「誠」の一字を染め抜いた旗はとても目立つ物だったでしょう。

新選組の特徴の一つに近藤や土方が定めた「局中法度」があります。局中法度は武士道に背く行為や新選組を脱退すること、勝手に借金をすること、勝手に訴訟に介入すること、個人的な争いをすることを禁じました。これに違反した場合、切腹を申し付けるという大変厳しいものです。実際、多くの隊士が局中法度違反を理由に粛清されました。

新選組の武名を上げた池田屋事件

1864年5月、長州藩とのつながりが疑われる炭薪商、枡屋喜右衛門こと古高俊太郎が逮捕されます。古高の自宅を捜査した結果、武器や長州藩士との間で交わされた書簡などが見つかりました。

さらに、新選組は長州藩や土佐藩、肥後藩などの尊攘派志士が逮捕された古高を奪還すべきか否かの会合を池田屋で開こうとしていると情報を得ます。近藤らは集合する志士たちを一網打尽にすべく池田屋に向かいました。

夜の10時ころ、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名は池田屋に突入します。わずか4名でも手練れの新選組は浪士たちを圧倒。それでも、浪士の一部は脱出に成功します。

沖田、藤堂が負傷して離脱し、一時は2人になった新選組でしたが土方歳三が応援に駆け付けたことで形勢逆転しました。この事件で9名を討ち取り、4名を捕縛します。

翌日、会津藩や桑名藩と連携し20名あまりの浪士を拘束。新選組の武名が上がりました。のちの維新三傑の一人となる桂小五郎(木戸孝允)は、会合に参加していましたがたまたま席を外していて難を逃れたといいます。桂も殺されるなり殺害されるなりしていれば、歴史は大きく変わったかもしれませんね。

戊辰戦争と新選組

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1868年、旧幕府軍と薩長を主体とする新政府軍が正面から激突する戊辰戦争が始まりました。新選組は旧幕府軍の一員として参加し各地を転戦します。鳥羽伏見の戦いで敗北したのち、甲州勝沼で新政府軍と戦い敗北。その後、近藤は捕らわれ処刑されてしまいました。生き残った土方は、宇都宮、会津と戦い続け、箱館で最期を遂げます。新選組は土方の戦死後、新政府軍に降伏。その歴史に幕を下ろしました。

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