新選組の結成と活躍
尊皇攘夷派の志士たちの活動に手を焼いていた幕府は、清河八郎が提案した浪士組結成の提案を受け入れます。浪士組は将軍警護の先発隊として京都に乗り込みました。ここで清河は浪士組結成の目的は尊皇攘夷のためと説明。反発した近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らは壬生浪士組を立ち上げます。のちに、芹沢ら水戸派を排除した近藤や土方は新選組局中法度を制定し、隊士たちを厳しく統制しました。その後、新選組は池田屋事件で名をあげます。
壬生浪士組の結成
1862年、庄内藩の郷士である清河八郎は幕府に将軍家茂上洛の際に警護隊を結成することを提案。幕府が提案を受け入れたことから、清河は将軍警固を名目に浪士たちを募集します。
1863年、清河らが編成した浪士隊は将軍上洛に先立って京都に入りました。ここで、清河は浪士たちを集め自分が浪士組を結成した目的が将軍警固ではなく、尊王攘夷活動を行うためだと宣言します。清河の方針に従うことを拒否した近藤勇、芹沢鴨、土方歳三らは清河と袂を分かちました。
浪士組が幕府の命令で江戸に呼び戻される中、近藤らは京都壬生村に残留し、新選組の前身である壬生浪士組を結成します。壬生浪士組は壬生村の八木邸を拠点である屯所とし構成員を増やしました。京都守護職の松平容保は壬生浪士組に浪士の取り締まりと京都市中の警備を命じます。
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芹沢鴨の暗殺と新体制
壬生浪士組は結成当初、二つの派閥に分かれていました。一つは芹沢鴨を中心とする水戸派、もう一つは近藤勇や土方歳三を中心とする試衛館派です。
試衛館とは、近藤勇が江戸に開いていた天然理心流の剣術同乗の名前のこと。沖田総司や永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一といった後世に名が残る新撰組隊士たちも試衛館派に属していました。
壬生浪士組結成当初、トップである筆頭局長の地位にいたのは芹沢鴨です。芹沢は水口藩の役人を脅して詫び証文を書かせたり、勝手に飲み屋に営業停止を申し付けるなど乱暴・勝手な振る舞いが多く、周囲の反感を買っていました。
1863年9月、泥酔した芹沢が八木邸で寝ている最中に何者かに襲撃され殺害されます。正確に誰かは判明しませんでしたが、試衛館派による粛清と考えるのが妥当でしょう。この事件で水戸派は一掃され、近藤勇を局長、土方歳三を副長とする新選組の基盤が固まります。