日本の歴史飛鳥時代

天武天皇を引き継いだ「持統天皇」とはどのような女性だった?詳しく解説

現代では天皇は男子に限られており、一時は女性宮家や女性天皇の論議も盛んにおこなわれたものの、最近ではそれも下火になっています。しかし、今から1,400年から1,500年前には実際に女性天皇が即位していました。その中でも実際に力を発揮していたのが持統天皇です。天武天皇の皇后であった鸕野讚良皇女(うののささらのひめみこ)とはどのような女性であったのか興味はつきません。 この持統天皇について解説します。

持統天皇とはどのような女性だったのか

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天武天皇が逝去されたあとの690年、皇后であった鸕野讚良皇女(うののささらのひめみこ)は持統天皇として即位しています。持統天皇は、天智天皇の息女でした。しかし、壬申(じんしん)の乱では、天武天皇になる夫大海人皇子とともに大津京の父天智天皇の後継政権(大友皇子)と戦い、打ち勝って天武天皇の即位に尽力しています。その貢献が認められて天武天皇即位後に皇后になったのです。

持統天皇と言えば、小倉百人一首でも「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」という歌で有名ですね。

でも、この持統天皇は、実際に政治を動かした女性天皇として歴史的にもまれな方と言えます。それ以前にも、推古天皇、皇極天皇(斉明天皇)などの女性天皇もいました。しかし、基本的には、蘇我氏や中大兄皇子などの傀儡であり、以降の元明天皇、元正天皇なども文武天皇へのつなぎの天皇だったのです。実際に政治権力を持った女性天皇は持統天皇が初めてでした。

自分の息子の草壁皇子を天皇位につけたかった

同じ天武天皇にはもう一人天智天皇の息女の大田皇女(おおたのひめみこ)が妻になっていましたが、体が弱く、大津皇子は生みましたが、壬申の乱より早くに亡くなっています。しかし、天武天皇が逝去された686年には鸕野讚良皇女の息子の草壁皇子も大田皇女の息子の大津皇子もまだ若く、しばらく鸕野讚良皇后が政務を見ていました。しかし、690年についに持統天皇として正式に天皇として即位されたのです。

その背景には、息子の草壁皇子よりも大津皇子のほうが優秀で、草壁皇子はどちらかというとおとなしく、覇気に欠けていると言われていた点がありました。この時には大田皇女はすでに亡くなって、大津皇子には後ろ盾がなく、草壁皇子を押しのけて天皇に即位することはできなかったのです。鸕野讚良皇后は、息子の草壁皇子を天皇に就けるために自身が天皇になり、自分の皇統が続く道を敷いたと言えます。そして、大津皇子は冤罪によって持統天皇の世で亡くなっているのです。

天智天皇と大海人皇子の対立で苦労

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大海人皇子は、天智天皇になる中大兄皇子と仲の良い同腹の兄弟で、中大兄皇子は息女を二人大海人皇子に嫁がせるほどでした。大海人皇子は天智天皇の次の天皇と目されていたのです。しかし、中大兄皇子が同腹の妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)を愛するようになり、兄弟の間に亀裂が生じ、朝廷内でも百済救済に対する意見対立が生じます。そのため、中大兄皇子が天智天皇として即位すると、息子の大友皇子を溺愛し、大海人皇子を警戒するようになったのです。

また、二人の間には共通の恋人と言える女性として額田王(ぬかたのおおきみ)がおり、その面でも張り合っていました。歌の才に長けた額田王を二人はともに可愛がっていたのです。額田王は、万葉集などにも多くの歌が掲載されている才女で、最初は大海人皇子が惚れ、それに中大兄皇子が手を出したと言われています。

中大兄皇子の息女であり、大海人皇子の妻でもあった鸕野讚良皇女は、2人の間にたって非常に悩んだことでしょう。

天武天皇の即位で皇后に

しかし、天智天皇が逝去されてすぐに、すでに吉野に出家をして吉野の宮に隠居していた大海人皇子は吉野を脱して、大津京の政府に反旗を翻したのです。これが壬申の乱でした。この壬申の乱に勝利した大海人皇子は大和に戻って天武天皇として即位し、都も大津から大和の飛鳥淨御原(きよみはら)宮に戻したのです。

そして天武天皇は、天皇中心の中央集権政治を宣言し、鸕野讚良皇女を皇后にたてました。この時には、大田皇女はすでに亡くなっていたのです。

持統天皇は天武天皇の天皇中心による中央集権政治を引き継ぐ

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天武天皇は大化の改新以来の課題であった天皇中心の中国式の中央集権政権を実質的に初めて実現したと言えます。もともと朝廷に力を持っていたのは大和などの豪族たちでしたが、彼らは壬申の乱で一掃され、天武天皇は自由に政治手腕を振るえたのです。

しかし、その期間はわずか15年ほどでした。686年に天武天皇は逝去され、天皇中心の中央集権青磁はこれで幕を閉じるかに見えたのです。しかし、天武天皇の意思を引き継いだ鸕野讚良皇后は、その後に天武天皇と同様に政治を見るようになり、天皇中心の政治は揺らぐことはありませんでした。その手腕は朝廷でも認められ、天武天皇逝去の4年後、持統天皇として即位することになったのです。

天皇家の血筋は草壁皇子と大津皇子のみ

なぜ、天武天皇逝去のあと、すぐに天皇がたてられなかったのでしょうか。それは、鸕野讚良皇后が、天皇家の血筋と認めたのは、天智天皇と天武天皇の両方の血を引く皇子のみだったからです。天皇中心の政治を貫くためには、あくまでも天智天皇と天武天皇の血筋が必要でした。その対象に該当するのは、大田皇女の息子の大津皇子と鸕野讚良皇后の息子の草壁皇子でしたが、当時はまだ二人とも若く、しかも朝廷での評価は大津皇子のほうが高かったのです。

優秀な大津皇子よりも凡庸な我が子を天皇にするため即位

鸕野讚良皇后は是非自分の息子である草壁皇子に継いで欲しかったのですが、比較的凡庸な草壁皇子を推す朝廷の声はなかったからでした。持統天皇は自ら即位して持統天皇となり、まだ7歳であった草壁皇子の息子である軽皇子(後の文武天皇)の成長に期待することにしたのです。そして、軽皇子が14歳の時には天皇位を譲り、女性で初の上皇となっています。軽皇子の母で、草壁皇子の后であった阿閉皇女(あへのひめみこ)は同じ天智天皇の娘で妹になる方でした。彼女は、文武天皇の後の天皇になっています。のちには、文武天皇の息子の首(おびと)皇子が成人するまでのつなぎとして元明天皇として即位していました。

持統天皇は、天智天皇と天武天皇の両方の血筋以外は天皇として認めていなかったのです。

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