三国時代・三国志中国の歴史

西楚の覇王「項羽」の生涯について元予備校講師がわかりやすく解説

秦王朝の末期、鬼神のごとき働きで秦を滅ぼした武将がいました。のちに、虞美人との恋愛や劉邦との闘争で知られる項羽です。項羽は挙兵以来、ほとんどの戦いに勝利した勇者でした。劉邦との争いでは序盤の圧倒的優位を生かせず、最終的には垓下に追い詰められて敗死します。今回は京劇の主人公としても登場する西楚の覇王、項羽の生涯についてわかりやすく解説します。

秦王朝の動揺

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紀元前221年に中国を統一した秦は法律のもとづく厳しい統治をおこないます。その結果、各地で反乱が起き、秦王朝は大いに動揺しました。秦に滅ぼされた楚の名門、項家に生まれた項羽は叔父の項梁に指導を受け、勇敢な若者に成長します。始皇帝の行幸を見て「俺がとってかわってやる」と言い放った項羽は、陳勝・呉広の乱に乗じて頭角を現しました。

楚の名門、項家に生まれた項羽

姓は項、名は籍、字は羽。のちに、項羽とよばれる男は紀元前232年に生まれます。項羽が生まれた項家は秦に滅ぼされた楚の名門で代々将軍をつとめた家柄でした。

項羽の祖父である項燕は秦の李信将軍の軍を撃破しましたが、名将王翦(おうせん)との戦いに敗れ戦死します。楚の滅亡後、項羽は叔父である項梁のもとで育てられました。

幼いころ、項羽は文字を習っても覚えず、剣術を習ってもすぐに飽きてしまい、項梁を怒らせます。しかし、項羽は剣術のように一人を相手にすることではなく、万人を相手にできる兵法を習いたいと言い出しました。項梁は喜んで項羽に兵法を教えます。

その後、項羽は項梁とともに南方の呉に移り住みました。このころ、成長した項羽は身長190センチほどの大男に成長。見るからに威圧感がありそうですね。

あるとき、項羽は始皇帝の巡幸の行列を目にする機会を得ます。その時、「俺が(始皇帝に)とってかわってやる」といい、周囲を慌てさせました。若いころから、負けん気が人一倍強かったようです。

項羽の叔父、項梁

項梁は項燕将軍の子の一人です。項梁は若いころ、人を殺して追われる身となりました。そのため、甥の項羽と共に江東にある呉に移住します。呉に移り住んだ項梁は地元の人々の信望を集め、秦の役人から命じられる人夫の手配や、葬儀の取り仕切りなどをおこない、地元の名士となっていきました。

地元に顔がきく名士というのは、秦の役人にとっても貴重な存在です。秦は中央集権国家だったので、地方を支配する役人も秦の首都咸陽から派遣されます。

秦の役人は地元に縁もゆかりもない人で、彼らは今でいう県知事や市長として地方を統治しなければなりません。もし、統治に失敗すれば秦の法律に照らされて厳罰に処されますから、派遣された公務員たちも必死でした。

中央政府から命じられた人夫の動員などを地元の反発を和らげながら実行するためには、項梁のような名士の存在は必要不可欠です。項羽は名士となった項梁のそばに常に控える大男として、人々の印象に刻まれました。

陳勝・呉広の乱

中国史上、初めて中国全土を統一した始皇帝が死去すると、それまで抑えられてきた反秦勢力が動き出します。始皇帝の死の翌年、貧農出身の陳勝と呉広は秦の圧政に対し農民たちをひきいて大反乱を起こしました。この乱は、陳勝・呉広の乱といわれます。

反乱を起こすと決意した陳勝は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と叫んで群衆を扇動しました。王であれ、貴族であれ、将軍であれ、大臣であれ、自分たちとそれらの人たちとどのような違いがあるだろうか、いや、違いなどない。

この陳勝の叫びは民衆を動かし、秦を揺るがす大反乱へと成長しました。陳勝の反乱軍はたちまち数万に膨れ上がります。この時、陳勝は人望があった秦の皇子扶蘇を、呉広は項燕を名乗りました。扶蘇や項燕の名が人々に広く広まっていたからこそでしょうね。

陳勝蜂起の知らせが中国全土を駆け巡ると、秦の圧政に耐えていた人々は秦が派遣した役人である郡守や県令を血祭りにあげて陳勝の反乱に呼応します。

楚の猛将、項羽

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陳勝・呉広の乱に呼応して会稽郡を制圧した項梁は、項羽と共に反乱軍を組織し長江を渡ります。項梁は楚の王家の末裔を探し出し、楚王とし秦に戦いを挑みましたが敗死しました。その後、項羽は楚軍をひきいて鉅鹿の戦いで秦に勝利します。項羽が秦軍と戦っていたころ、劉邦は別動隊をひきいて秦の都咸陽を落としました。しかし、劉邦は函谷関を閉じて項羽を締め出してしまいます。怒った項羽が函谷関を攻め落としたため、劉邦は謝罪のために項羽のもとを訪れました。

項梁の挙兵と楚王擁立

陳勝・呉広の乱が広がると、会稽郡の郡守殷通(いんとう)は自分も反乱軍に殺されるのではないかと恐れ、項梁に相談しました。項梁は殷通に「先ずれば人を制す」とアドバイスして反乱を起こすことを勧めます。

項梁は殷通に、甥の項羽を引き合わせたいと申し入れ、項羽を郡の庁舎にこさせました。やってきた項羽は殷通を殺害。混乱に乗じて項梁が会稽郡の役所を制圧しました。

項梁は会稽郡守を名乗り、8,000の精鋭を集めます。項梁は項羽を副将に任じて会稽の周辺諸県を制圧させました。項梁は軍師范増(はんぞう)の意見を聞き、自分の挙兵を正当化するため、楚王の子孫である羊飼いの心を探し出し、楚の懐王として即位させます。

項梁自身は武信君と名乗り、軍権を掌握しました。勢力を拡大した項梁でしたが、紀元前208年、定陶の戦いで秦の章邯(しょうかん)将軍に敗北し戦死してしまいます。

鉅鹿の戦い

項梁の死後、宋義という人物が楚軍の司令官となり、項羽は副将とされました。このころ、秦に反乱を起こした趙が楚に救援を求めます。楚の懐王は宋義と項羽を援軍として派遣しました。

ところが、宋義は秦と趙を戦わせて秦軍の疲れを待つ戦術をとり、ゆっくりとしか進軍しません。しびれを切らした項羽は宋義を斬り、全軍の指揮権を掌握します。

項羽は急ぎ北上し黄河を渡りますが、渡りきったところで船を沈め、3日分の食料を除いて料理用の鍋などすべて黄河に捨てました。兵士たちに短期決戦を覚悟させるためです。

決死の軍となった項羽軍は秦の章邯軍を激しい戦いの末、打ち破り趙を救いましした。鉅鹿の戦いの後、章邯は敗北を重ね項羽に投降します。項羽は降伏した20万の秦軍を皆殺しにしました。

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