イギリスヨーロッパの歴史

「ナイチンゲール」はどんな女性?彼女の成功の秘密を歴史好きが徹底解説

フローレンス・ナイチンゲール、クリミア戦争で多くの兵士を助けた献身的な看護師、彼女の名前を聞くと、そんなイメージを思い浮かべる人も多いかもしれません。しかし彼女が後世に名をのこす看護師となった理由は、戦地で多くの兵士を助けたからだけではなく、看護師という職業や、病院の在り方を大きく変えたところにあります。ナイチンゲールは前例のない、道のない道を切り開く行動力を兼ね備えた女性でした。こうした大きな改革を推し進めるために必要なことはなにか、そのヒントは彼女の人生の「待つ」時間に隠されています。この記事では、ナイチンゲールの人生に幾度となく訪れた「待つ」人生に焦点をあてていきます。

生きていくことの意味を問うた少女・ナイチンゲール

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フローレンス・ナイチンゲールといえば「看護師」ですが、意外にも看護師の仕事を始めたのは遅く、30歳になってからでした。彼女はイギリスの上流家庭に生まれ、本来であれば親の望む結婚をして、不自由ない暮らしを送るはずでした。しかし16歳の時に神のお告げを聞いたことで、人生が大きく変わっていきます。親の猛烈な反対の中で、使命を果たすための彼女の「待つ」戦いが始まっていくのです。

上流家庭の生活を息苦しいと感じていた少女

ナイチンゲールは、イギリスの上流階級の家に生まれました。舞踏会やパーティなど、社交界の華やかな世界で生きることが当たり前の家庭です。当時のイギリスでは、上流家庭に生まれた女性は働くことが許されず、親の望む結婚をして家庭を守ることが仕事とされました。しかし彼女は豪華な調度品にかこまれた客間で人をもてなすことよりも、本を読んだり数学を勉強することが好きな、他のお嬢様たちとは違う女の子でした。

16歳のとき、彼女は不思議な経験をします。「神に仕えよ」という声を聞いたのです。そのときから、ナイチンゲールはこの言葉の意味を考えながら生活を送りました。何をするべきかはまだ分かりませんでしたが、社交界で暮らしていくことが、神に仕えることだとは思えませんでした。

進むべき道を見つけたナイチンゲール

派手な社交界の生活は馴染めませんでしたが、上流家庭の淑女の活動の中で、彼女が熱心に取り組んだものがありました。それはめぐまれない人々の世話です。当時は、ねたきりの老人や飢えに苦しむ人、または病人などをたずねて服や食べ物をくばってまわることが淑女のたしなみの1つでした。そうした活動を通して、目にした悲惨な人々の現実に、彼女は心を痛めます。

「私の心は人びとの苦しみを思うと真っ暗になり、それが四六時中、前から後ろから、私につきまとって離れない。まったく偏った見方かもしれないが、私にはもうほかのことは何も考えられない。詩人たちが歌い上げるこの世の栄光も、私にはすべて偽りとしか思えない。目に映る人々は皆、不安や貧困や病気に蝕まれている。」

彼女はこの世に存在する病気や貧困に取り組むことこそが、神のお告げに沿った生き方だと確信していきます。しかしその心の内はだれにも明かしませんでした。病院で働くことを、両親が許すわけないことが分かっていたのです。

理解を得られず時機を「待つ」ナイチンゲール

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自分の進むべき道を看護の世界だと決意したものの、家族からも社会からも受け入れられるはずのない無茶な願いだと分かっていたナイチンゲールは、使命を果たすための時機を待ちます。彼女の「待つ」人生のはじまりです。

ナイチンゲールの時代の病院と看護

そもそもなぜ、病院で働くことが許されないのでしょうか。実は、当時の病院や看護婦に対するイメージは、今とはまったく違う悲惨極まりないものでした。病室といえば、暗くて狭くて、非常に不衛生な場所。同じベッドに何人もの患者が寝かされ、シーツも枕カバーも汚れ放題、床や壁には排泄物や食べ物のかすなどの汚れが染みつき悪臭を放つ始末でした。

そんな場所で病人の世話をするのは、看護の教育も受けていない社会の最下層の貧しい女子です。ましな看護婦でも、せいぜい洗濯をし、明かりをともし、食事を作るメイドのような存在で、ひどい看護婦になると、患者の前でも平気で酒を飲むなど、なまけてばかりいました。そのため、当時の看護の仕事は、給料をもらうことすらはずかしく、いやしい女のすることというイメージだったのです。上流家庭の女性が職業に就くことすらあってはならなかったのに、それが看護婦だなんて、両親が許してくれるはずがありませんでした。

受け入れられない看護の夢

看護の道に進むことは、家族からも社会からも受け入れられるはずのない、無茶なものであることが分かっていました。それでも家族に話す機会をうかがいながら生活する彼女に、ある日チャンスが訪れます。

近隣の町のソールズベリー施療院の院長のファウラー博士がナイチンゲールの住む町に滞在することになったのです。彼女は両親と博士が談笑しているときに、ファウラー博士の病院で看護の研修を受けたいと話を切り出しました。しかし、思いがけない申し出に、母は激しく泣き出し、姉は失神し、父は「看護なんて愚かなことのために育てた覚えはない」と席を離れてしまいます。彼女の作戦は失敗、病院に行くことは諦めざるを得ませんでした。

夢の実現を「待つ」間にしたこと

病院で学ぶことは諦めても、看護の夢自体を諦められない彼女は、自分にできることを探して行動をしました。

ひとつめは、看護の勉強です。家族にばれないように、夜明け前から起きて、知人に送ってもらった病院の排水設備の問題や病気の発生状況に関する何百ページにも及ぶ報告書や統計資料を読みふけり、分析しました。家族が起きると勉強を中断して、上流家庭の娘らしくふるまい、看護の勉強をしていることがばれないようにして生活しました。

ふたつめは、看護に詳しい友人との交流や病院の見学です。ナイチンゲールの夢を猛反対した母は、山のような家事を命じ、さらに晩餐会や朝食会、舞踏会を増やして彼女の看護に対する気持ちを切り離そうとしました。さらにこの時期、夢の実現のために好きな人からの求婚をも断ったナイチンゲールは心身ともに疲れ果ててふさぎこんでしまいます。

そんなナイチンゲールの気分を晴らそうと、友人が誘ってくれた旅行で、彼女の人生において大切な出会いがありました。シドニー・ハーバート、イギリスの政治家です。病気や貧しさに苦しむ人のために働こうとするナイチンゲールの話を聞くと、ハーバートは慈善事業の方面につながりのある有力者たちを彼女に紹介し、彼女が看護の活動をしやすくなるよう、人脈作りに協力してくれました。

また、友人は旅行の最中に、プロシア(ドイツ)のカイゼルスヴェルトという病院が併設された教育施設にナイチンゲールを連れて行きました。そこで病院を見学し、運営について学び、実際に入所している子どもたちの世話もしたのです。

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