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人民解放軍が学生デモを弾圧した「天安門事件」について元講師が解説

天安門事件の経緯

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1989年5月、胡耀邦の死去を悼む追悼集会から端を発したデモは急速に拡大。民主化運動へとつながりました。中国の国営メディアである中国中央電視台のニュースや翌日の人民日報では、学生の動きを動乱と決めつけます。そのため、学生たちの態度は硬化しました。事態収拾のため鄧小平は戒厳令を布告。趙紫陽の反対を振り切って、鄧小平は人民解放軍による武力弾圧を実行します。

胡耀邦の死去と学生デモの始まり

1989年4月15日、民主化運動に理解を示していた胡耀邦が病死します。胡耀邦は鄧小平に総書記を解任された後も政治局委員として留任しましたが、事実上の自宅軟禁状態に置かれていました。

胡耀邦死去の知らせを聞いた北京の学生や知識人たちは4月16日に胡耀邦の追悼集会を開催します。最初は小規模な集会でしたが、次第に参加者は人数を増し、4月18日には1万人ほどの学生が北京市内でデモ行進をおこないました。

学生たちは民主化を求めて、人民大会堂前での座り込みや政府要人の邸宅がある中南海の正門付近にあつまり、警備隊と衝突。4月21日、参加者はついに10万人を越え天安門広場前で民主化を要求するに至ります。学生たちの主張は独裁主義の打倒や憲法の基本的人権の擁護などでした。

デモを激化させた「四・二六社説」

デモに対し、総書記の趙紫陽は学生たちを刺激せず、対話の道を模索していました。しかし、首相の李鵬を筆頭とする保守派は文化大革命の再来を恐れ、学生運動を早期に弾圧すべきと主張します。

趙紫陽が北朝鮮への公式訪問のため北京を離れると、李鵬ら保守派は鄧小平の意向を踏まえ、中国中央電視台のニュースや翌日の人民日報で「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題する社説を発表させました。社説発表の日付を取って「四・二六社説」とよばれるこの社説を見た学生たちは激しく怒ります。

北朝鮮から帰国した趙紫陽はなおも学生との対話を模索しました。このころから、学生運動の規模は急速に拡大します。中国全土から北京に流入した学生や労働者は50万人を越え、政府の統制を受け付けない状態となりました。

鄧小平による戒厳令の布告

5月17日、最高実力者鄧小平の自宅で最高幹部による会議が開かれます。会議の主題はデモ鎮圧のために戒厳令を布告すべきかどうかでした。戒厳令とは非常事態に対応するため、軍隊に強大な権限を与えて事態を収拾させる命令です。

趙紫陽は戒厳令の布告に強く反対、李鵬ら保守派はただちに戒厳令を布告すべきだと主張しました。会議の中で鄧小平は学生デモの原因は趙紫陽が学生運動を「愛国的」と評する甘い態度をとったためだと述べ、北京市内に軍を展開し戒厳令を布告することを宣言します。

趙紫陽は戒厳令の実施にあくまで反対したため、鄧小平は李鵬らに戒厳令実施を命じました。全国各地から集められた人民解放軍は北京市を包囲。徐々に包囲網を狭めていきました。

趙紫陽の説得失敗とデモの武力弾圧

5月19日の早朝5時、趙紫陽は天安門広場でハンガーストライキを行っている学生たちの前に姿を現します。趙紫陽は学生たちに流血を避けるため、デモを解散すべきだと必死に歌えましたが学生たちは従いません。5月20日、鄧小平は趙紫陽を事実上解任。デモの弾圧を実行に移します。

その前日の5月19日、中国共産党と中国政府にあたる国務院は戒厳令の布告を発表しました。しかし、デモ参加者たちは戒厳令の布告に抗議。100万人規模の大集会へと発展します。

6月3日夜から翌日朝にかけて、人民解放軍は天安門広場周辺に突入しました。人民解放軍は抵抗するデモ参加者に対して発砲。各地で大混乱が起きました。人民解放軍による武力弾圧の様子はイギリスやアメリカ、香港のメディアによって世界中に伝えられます。人民解放軍の戦車に素手で立ち向かう男性の映像が報道されたのもこの時でした。

天安門事件の影響・その後

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中国人民解放軍による天安門広場での民衆弾圧に対し、アメリカやヨーロッパなど西側諸国は経済制裁を発動します。しかし、中国は江沢民を指導者として経済発展を目指し、国民の不満を和らげようとしました。天安門事件の後も、中国共産党による一党独裁は維持され、民主化運動への弾圧は続けられます。

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