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人民解放軍が学生デモを弾圧した「天安門事件」について元講師が解説

西側諸国による制裁の発動と国際社会の反応

中国人民解放軍による武力弾圧をうけ、西側諸国は中国政府を非難しました。西側諸国は中国への武器輸出禁止や世界銀行による中国向け融資の停止などの経済制裁を実施します。一時は、西側からの資本流入が完全にストップしてしまい、中国の経済成長に大きな影響を与えました。

しかし、西側諸国も中国との決定的な衝突は回避しようとします。1989年7月に行われた第15回サミットで日本は中国の孤立は避けるべきと主張。アメリカのブッシュ政権も鄧小平に送った書簡で宥和的な態度を見せます。また、1992年には宮沢内閣が天皇訪中を閣議決定。10月に天皇皇后両陛下の中国訪問へとつながりました。

こうして、中国は徐々に国際社会に復帰していきましたが、中国共産党による一党独裁は変わらず、現在に至っています。

江沢民体制への移行と中国の経済発展

趙紫陽の失脚後、鄧小平は江沢民を次の指導者に指名します。江沢民は鄧小平による改革・開放路線を継承。経済は発展させつつも、民主化には応じないという鄧小平の基本路線を継承しました。

江沢民は経済の発展なしに国際的地位の向上はあり得ないと考え、社会主義市場経済の積極的な導入をはかります。1990年代以降、中国経済は驚異的な成長を遂げていきました。

その間も、鄧小平は最高実力者として中国に君臨し続けます。1997年、鄧小平は死去しますが、鄧小平路線は江沢民やその後の指導者に引き継がれました。

鄧小平が死去した1997年、中国はイギリス領となっていた香港の返還を実現させます。2001年にはWTOへの加盟も果たし、今ではアメリカにつぐ経済大国へ成長しました。

今も続く天安門事件への警戒

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天安門事件後、学生運動の中心となった人物は中国政府によって現在も指名手配されています。2010年、学生運動の指導者の一人、劉暁波がノーベル平和賞を受賞しました。中国政府は劉暁波の出国を認めず、授賞式は本人不在の中で執り行われます。中国ではインターネットで天安門事件を検索することができないようになっていることも併せて考えると、中国政府が今も天安門事件の再来を警戒しているとがわかりますね。

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