中国の歴史

中華思想から見る「中国の歴史」これでもかと解説!

中国といえば4000年の歴史と呼ばれているほど長い歴史が存在しているということは歴史を習っていれば知っているかも知れません。しかし、そんな中国では中華思想という考え方があり、その思想をもとに中国の歴史は変わっていったのです。 今回はそんな中華思想を軸に考えていた中華王朝の歴史について見ていきたいと思います。

そもそも中華思想って何?

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中華思想とは簡単にいうと中国が一番であり、その周りの民族は全て野蛮人の国として扱うことを指します。基本的には中国の王朝が採用した考え方で、現在でも中華民国や中華人民共和国にその名前が残されています。

中国は自分の王朝が周辺の歴史を大きく変えているという自負を持っており、そして本当に周辺諸国の歴史に影響を与えていきました。

中国の歴史

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中国では中華思想が生まれていくことになりますが、この思想をもとに中国の歴史は動いていくようになりました。

ここからはそんな中国の王朝の歴史について見ていきたいと思います。

中国の始まり

中国において王朝の先駆けとなった農耕生活は今からおよそ7000年前の黄河流域にて行われていました。この頃はお米ではなく、アワといった雑穀を育てており、家畜として豚や犬を飼って時には食べながら平和に暮らしていました

そのために中国では食べ物用やアワなどを保管するための貯蔵庫のために土器などが作られていくようになるのです。この土器は彩文土器と呼ばれ、その土器を使っていた時代の文化のことを彩陶文化といいます。

そして時代がさらに立って今からおよそ5000年ぐらいには土器の技術も進歩していき、壊れにくい土器が誕生。日本の弥生土器みたいな土器ですが、黒い土器であるためこの土器を使われていた文化を黒陶文化と呼びます。 

そしてこの文化の時に、農耕の生活のために村々が続々と誕生。中国ではこの村々のことをと呼ぶのですが、この邑という村々が王朝の原点となっていくのでした。

周りの諸侯とのお付き合い【殷と周の時代】

夏の遺跡が確定していないため正式に存在していたのかわかっていないのですが、確定で存在しているということがわかったのが殷でした。殷では王が占いによって政治を行う神権政治をとっており漢字のもとになっている甲骨文字などが殷の時代の遺跡から発掘されています。しかし時代が下って紂王の時代に入ると紂王が妲己という女性を溺愛したことで国を顧みなくなりました。そのおかげで周りの諸侯は一応従っていた殷に対して反旗を翻るようになり、周の武王によって滅ぼされることになります。

紀元前11世紀頃に殷を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を諸侯として封建制をおこないました。

しかし、この周の時代の封建制度は周の力がほとんどない状態となってしまい、諸侯の力がないと維持できない状態にあったのです。

春秋時代と諸子百家

こうして不安定な政治体制によって周王朝は徐々に弱体化し、北方の遊牧民族の侵入も始まり周は都を攻略されたことによって周王朝は中国の東にあった洛邑(後の洛陽)に遷都しました。これを境にそれ以前を西周以後を東周と歴史学ではわけています。

周が洛邑に遷都したことによって時代は周に従っていた諸侯たちが争いを起こすようになる春秋時代に突入。周りの諸侯が覇を競うそんな時代に入って行ったわけなのです。

こうした武力によって覇を競う時代に突入すると諸侯たちは諸子百家と呼ばれる思想家たちをこぞって登用するようになります。

諸子百家はどのように中国を治めるかという思想を持っていた人たちのことで、中国で今でも親しまれている儒学はこの時に生まれたものです。また、儒学の他にも孫子の兵学や法学などが諸侯たちに使われることになります。

さらには、それまでの木製の道具に代わり春秋時代には鉄製の農具が登場し、農業や商業が飛躍的に発展し、商業においては青銅の貨幣が登場していくことに。

こうした国を強くすることを富国強兵と呼ばれることになるのですが、この富国強兵を行った諸侯たちが後に春秋の五覇や戦国の七雄となっていくのです。

ちなみに春秋時代にも地味に存在していた周王朝でしたが、紀元前403年から始まるとされる戦国時代には、周王朝の権威は無視されるようになります。

秦の誕生

春秋時代ののちに成立した戦国時代では諸侯たちがさらに権力を持つようになっていき、いわゆる群雄割拠の時代に突入していくことになります。そんな中、中国の西側に勢力をほこっていたのが秦という勢力でした。

現在の陝西省あたりにあった秦は法家と呼ばれる法律を大切にする法治主義を採用して富国強兵を推進。さらには山間にあったこともあってか周りが争っているうちに戦国時代に着々と勢力を伸ばいったのです。

秦は他の6つの列強を次々と滅ぼし、紀元前221年には史上はじめての中国統一を成し遂げます。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として皇帝を用い自ら始皇帝と名乗った。さらに始皇帝は自身が採用していた法家の学者である李斯を登用していきこれまでの地方でばらばらだった権力を中央政府に集約するという中央集権化を推し進めていき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する郡県制が施行されました。

またこれまで中国でバラバラであった文字や貨幣や度量衡の統一も行われ、中国は統一国家としての道を歩み始めたのです。

秦の滅亡と楚漢戦争

こうして秦の始皇帝によって中国統一が初めて成し遂げられることになりましたが、始皇帝は法律かなり厳しくさらには法家と敵対していた儒家などを厳しく弾圧。焚書坑儒を行って儒家を厳しく弾圧して殺したりもしていました。

しかし、法律が厳しすぎることもあり農民の不満は徐々に高まっていくことに。さらには始皇帝が亡くなると宦官であった趙高が権力を振りかざすようになり国内は大混乱。

最終的には農民であった陳勝と呉広が工事に間に合わなくなったことを受けて反乱を蜂起。いわゆる陳勝呉広の乱が勃発することになります。

その後秦では農民の反乱が相次ぎ、前206年に項羽が咸陽を攻め滅ぼしたことで滅亡。秦は短命に終わったのでした。秦が滅びた後、中国では楚漢戦争と呼ばれる内乱に突入することになります。項羽と劉邦による争いの結果最終的には劉邦が勝利。劉邦は洛陽にて漢の皇帝となりました。

前漢の時代

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皇帝となった劉邦は反乱分子となる家臣たちを次々と粛清していき国内情勢を安定させていきます。さらに劉邦は始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗した教訓があったのを受けて皇帝の権威が届く地域では中央集権的な形に、少し離れた辺境では親戚や臣下を王として治めさせた郡国制をしきました。

しかし、この郡国制は親戚にあまりにも大きな権力を与えたことが災いとなってしまい紀元前154年に呉楚七国の乱と呼ばれる反乱を起こることになります。

この反乱は鎮圧されましたが、この反乱を受けて前漢では秦と同じような中央集権国家となっていきました。

その後、前漢は武帝の時代にはいると匈奴を撃退してさらには朝鮮半島北部、ベトナム北中部にも侵攻して前漢の全盛期を築き上げることになります。しかしその裏では度重なる軍事行動によって農民の生活が苦しめられることに。

さらには皇帝の外戚(母方の実家のこと)が強い権力を持つようになっていき前漢は一気に弱体化していくことになります。

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