天空都市!世界遺産マチュピチュの歴史と見ておくべき絶景スポット5選
- まずはインカ帝国の歴史から見ていこう
- 高度な農耕・金属器文化を持ったインカ帝国
- インカ帝国の政治と社会
- スペイン人によって滅ぼされたインカ帝国
- 400年後に発見されたマチュピチュ遺跡
- アメリカ人探検家がマチュピチュを発見する
- 世界遺産となったマチュピチュ
- マチュピチュへ行ってみよう!
- まずは飛行機を乗り継いでクスコまで行こう
- マチュピチュへは鉄道を使って移動
- マチュピチュの見どころスポット5選!
- インカの人々の農作地?【段々畑】
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- マチュピチュを真上から望める絶景!【ワイナピチュ】
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この記事の目次
まずはインカ帝国の歴史から見ていこう
15世紀半ばあたりに滅ぼされるまでは、中南米~南米にかけて、マヤ文明、アステカ文明、インカ帝国などの王国が栄えていました。これらの地域は西は太平洋、東は大西洋といったヨーロッパから見れば絶海の場所にあったため、長い間その存在が知られてはいませんでした。しかし大航海時代を迎えると共に、海を越えてやって来た異国人たちによって歴史の奔流に巻き込まれていくのでした。まずは基礎知識としてインカ帝国の歴史を振り返りたいと思います。
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高度な農耕・金属器文化を持ったインカ帝国
インカ帝国の最盛期は、ちょうど現在のペルー、ボリビア、チリを合わせたくらいの広大な領土を持っていました。しかし非常に細長い形をしていて、南北に約5,000キロもの長大な距離がありましたが、東西となると200キロ程度の幅しかありません。いわば「長いさやえんどう」のような特異な形をした領土だったといってもいいでしょう。
理由は海岸線から程近い場所に7,000メートル級のアンデス山脈が南北に走っており、東西への拡大ができなかったからです。領土を広げるにしても南北にしか行くことができないため、そういった形状になりました。今のチリの地図を見ても理由がはっきりとわかると思います。
インカという名称は、元々は首都クスコに住んでいた一部族の名前のことで、その部族が中心となって大帝国を築いたからです。ただし正式な国名は「タワンチン・スウユ」といい、「四つの地方からなる国土」という意味があったそう。インカの一族が中心となった連合国家というほうが正しいかも知れませんね。
彼らは金属器を用いた典型的な農耕部族で、温暖な気候を生かした農業技術は非常にレベルが高いものだったとされています。このインカ帝国を含むアンデス地方から原産の野菜が多く世界へ広まっていますね。サツマイモもそうですし、ジャガイモもそう。唐辛子、とうもろこし、ピーマン、トマトなどなど数えきれないくらいあるのです。
彼らの高度な農耕技術によって生み出された食材が、今も私達の食生活を支えているといっても過言ではないですね。
インカ帝国の政治と社会
現在、日本を含む多くの国々で「政治と宗教は分離しておくべき」という政教分離の原則が採用されていますが、インカ帝国の場合は皇帝自身が祭祀を司る神職でした。(日本も戦前までは天皇がその立場にありました)
太陽信仰によって、皇帝は「太陽の子」と崇められ、太陽の化身として国家を統治する役目があったのです。国の上流階級も、皇帝を支える貴族層と、神殿での儀礼を司る聖職者で占められ、大多数の国民はひたすら農耕に従事していました。
国内経済は原始共産主義ともいえるもので、取引額や税額は一律で決められており、家畜の取引も公営、道路建設や鉱山事業なども全て公営で賄われていました。電卓やソロバンどころか文字すら持たなかった彼らは、キープという縄の結び目を数えて数値を表し、それを計算に使っていたようです。
インカ帝国は南北に非常に長いだけに、道路インフラは発達していたようですね。「すべての道はローマに通ず」ではないですが、首都クスコを中心にして網の目状に道路網が走り、物流や伝達、軍隊の移動などにも有効に活用されていました。その総延長距離は3万キロともいわれ、その道路を見たスペイン人シエサ・デ・レオンの記録「ペルー記」によれば、道は石ころ一つ落ちていなくて雑草もきれいに刈られ、限りなく真っすぐに、二つの地域を最短距離で結びつけるように設計されていたそう。
スペイン人によって滅ぼされたインカ帝国
実はスペイン人たちがやってくる以前に、インカ帝国はすでに弱体化していたといわれています。帝国の発達しすぎた道路網が仇になり、天然痘が国中に蔓延したからです。この伝染病のおかげで人口の半数以上が死に絶え、その状況を見たスペイン人ピサロがとどめを刺したといっても過言ではありません。
さらには皇位継承をめぐって内乱が勃発し、弱体化に拍車を掛けることに。1532年、インカ帝国の北端に上陸した少人数のピサロ一行は、皇帝をだまして捕え、殺害してしまいました。これにより帝国はあっけなく滅亡してしまいますが、元々は連合国家であったがゆえ、皇帝の支配から脱却するためにピサロに味方した者が多かったといいますね。
天空都市マチュピチュもそうしたスペイン人に対する抵抗拠点として築かれたという説が有力なのです。しかし、彼らインカの人々は記録を残しておくべき文字を持たなかったために、マチュピチュの存在は長い間知られることはありませんでした。
400年後に発見されたマチュピチュ遺跡
スペイン人たちに抵抗を続けたインカ帝国の残党でしたが、1572年に最後の要塞が陥落して皇帝が処刑されるに及び、実質ともにインカは滅亡してしまいました。その後、アンデス地方はスペインの植民地として厳しい搾取に遭い、インカの伝統も滅んだかに見えました。しかし、そのアイデンティティは後世になっても生き続け、民族独立を成し遂げていくのです。そして独立を果たした90年後、ついに天空都市マチュピチュがその姿を現す時がやってきました。
アメリカ人探検家がマチュピチュを発見する
マチュピチュが発見されたのは、ほんの偶然でした。アメリカ人探検家ハイラム・ビンガムが古いインカの道路を調べていたところ、たまたま山の上に見えている遺跡を発見したのです。ちなみにビンガムは、映画「インディ・ジョーンズ」のジョーンズ博士のモデルになった人物ですね。
翌年から本格的な発掘調査をすすめ、ここで多くの女性の遺体を発見しています。その場所は太陽神に仕える巫女たちが住んでおり、彼女たちは生贄になったのだと定説が形作られました。また、調査がすすむにつれて、ここには300人から1000人ほどの人々が住んでいて、女性だけでなく男性も暮らしていたことがわかりました。
ナショナル・ジオグラフィックチャンネルという歴史や考古学、人文科学などのテレビ専門チャンネルがありますが、当時はその前身であるナショナルジオグラフィック誌という科学誌が発行されていました。その雑誌の中でビンガムの研究成果は大々的に特集を組まれて世界へ発信されました。まさにマチュピチュが世界から注目され始めたのは、この頃からだといって良いでしょう。
世界遺産となったマチュピチュ
その後もマチュピチュに関する研究が行われ、様々なことがわかってきました。元は15世紀に造られた皇帝の別荘地であったらしいこと、太陽の動きを観測するための観測所だったかも知れないこと、スペイン人たちの侵略を恐れるあまり住民自らが火を放ったことなどが定説として挙げられていますね。
しかし、マチュピチュに関しては分からないこともまだまだ多いのです。あれだけの石垣や建造物を造るだけの巨石をどうやって山の上まで運んだのか?段々畑にしては狭すぎる階段状地形の意味は?そして何より、なぜそんな急峻な高山に都市を築いたのか?やはりインカには文字が存在しなかったために謎は未だに解けないままなのですね。
1983年、マチュピチュは世界複合遺産に登録され現在に至っています。日本からの観光客も多いようで、ぜひ機会があれば行ってみたい人気のスポットになっていますね。