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諸葛亮と蒋介石が行ったそれぞれの「北伐」を元予備校講師がわかりやすく解説

中国の長い歴史で、南方の勢力が北方の勢力を攻撃することを「北伐」といいます。数多くある北伐の中で、とても有名なものは、三国時代の諸葛亮が行った「北伐」と、近代に蒋介石が行った「北伐」の二つ。今回は、諸葛亮と蒋介石、彼らが行った「北伐」について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

三国時代、蜀の丞相だった諸葛亮の北伐

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諸葛亮は『三国志』ファンで知らない人はいないというほどの有名人。劉備が三顧の礼をもって軍師に迎えた諸葛亮は、劉備に天下三分の計を献策しました。劉備の死後、諸葛亮は劉備の志である漢王朝の復興を果たすため「北伐」を企図します。そのためには、背後の南蛮地域を平定する必要がありました。南蛮平定を果たした諸葛亮は、劉備の子で蜀の皇帝になっていた劉禅に「出師の表」を奉り、「北伐」を開始しました。しかし、魏の司馬懿に往く手を阻まれ、志半ばでこの世を去りました。

諸葛亮が劉備に献じた天下三分の計

諸葛亮は現在の山東省を本籍とする人物ですが、正確な生誕地は不明です。叔父の諸葛玄に連れられ南方に移住した諸葛亮でしたが、叔父が戦いに敗れて亡くなったため、弟ともに荊州に移り住みます。

荊州で晴耕雨読の日々を送っていた諸葛亮の下を訪ねてきたのが劉備でした。劉備は荊州の支配者である劉表のもとに身を寄せる客将です。人材を求めていた劉備は「臥竜」こと、諸葛亮のうわさを聞き、彼のもとに足を運びました。

2度のすれ違いの後、3度目にようやっと会えた劉備は、自分よりもはるかに年下の諸葛亮に教えを請います。諸葛亮は現在の状況を踏まえ、いきなり強大な曹操と戦うのではなく、荊州や蜀を平定してから北伐して漢王朝を復興させるべきだと劉備に説きました(天下三分の計)。

諸葛亮は、何度も足を運ぶ劉備の熱意に負け、劉備の軍師となりました(三顧の礼)。

荊州の喪失と天下三分の破綻

劉表の死後、混乱に乗じて攻めてきた曹操軍と長坂で戦って敗れた劉備は、諸葛亮を呉の孫権のもとに派遣し、同盟を締結します。208年、孫権・劉備連合軍は、呉に攻め込んできた曹操軍と戦い勝利しました(赤壁の戦い)。

赤壁の戦いの後、荊州を占領していた曹操軍は北へと後退。空白になった荊州を劉備が抑えました。その後、西方の蜀を劉備が平定することで、諸葛亮がイメージした天下三分の形が出来上がります

ところが、ここにきて同盟者の孫権が荊州を要求してきます。荊州の守りを任されていた劉備の義弟関羽は孫権の要求を拒否。孫権は曹操と手を組み、関羽を倒して荊州を手に入れます。これに怒り狂った劉備が呉に攻め込みますが大敗。天下三分の計は破綻してしまいました。

天下三分の再建と背後を固めるための南蛮遠征

呉との戦いで敗北した劉備は、失意のうちにこの世を去りました。劉備の跡を継いだ劉禅はまだ若く、劉備は諸葛亮に丞相として蜀の政治を担当するよう遺言します。諸葛亮は劉備との約束である漢王朝復興のため、天下三分の立て直しと「北伐」の準備をはじめました。

まず、荊州についてはあきらめ、呉との同盟復活を優先します。孫権は、荊州さえ手に入れば蜀と協力して魏と戦ったほうが良いので、これを承諾しました。

次に諸葛亮が実行したのは、蜀の南方にある南蛮の平定。南蛮の支配者である孟獲は、蜀に敵対的で、魏の働きかけなどもあり蜀への侵攻を狙います。孟獲に勝利することで、諸葛亮は後方の安全を得ようとしました。諸葛亮の南蛮平定は成功。「北伐」への準備が整います。

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