中国の歴史中華人民共和国

中華人民共和国の黒歴史「文化大革命」をわかりやすく解説

今でこそ世界第2位の経済力を誇り、世界の工場という異名まで持つ中華人民共和国。しかし、この国は1970年代では毛沢東の失政によってとんでもないぐらい国土が荒廃してしまい、さらには今回解説していく文化大革命によって国内は大混乱に陥ってしまったのです。 一体中華人民共和国はどのような政策を行ってきたのでしょうか? 今回はそんな文化大革命について解説していきたいと思います!

簡単におさらい!文化大革命が起こるまでの中華人民共和国

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文化大革命が起こった中華人民共和国は共産主義を推し進めようとした社会主義国家でした。

まずは、社会主義国家を建国した中華人民共和国がどうして文化大革命という地獄のようなことを行なっていったのかを見ていきましょう。

中華人民共和国の建国

アジアの巨大国家中国。この国は1920年代に入ると当時中国にて中華民国を組織していた中国国民党と後に中華人民共和国を建国することとなる中国共産党が互いに争う国共内戦の時代に突入することとなりました。

そして、1937年から始まった日中戦争を経て1945年から始まった第二次国共内戦によって中華人民共和国は民衆の支持を受けて勝利。

1949年に中国大陸において中華人民共和国を建国し社会主義国家を樹立することを達成したのでした。

ソ連との対立

こうして中国大陸を統一した中国共産党でしたが、この当時の共産党のリーダーであった毛沢東は自身が主張した毛沢東思想に基づいて政治を行って行くことにしました。

さらに毛沢東は当時社会主義の親玉でもあったソ連と接近。向ソ一辺倒の下で友好関係を結んでいました。

しかし、1956年に長年ソ連を指導してきたスターリンが亡くなると、その後を継いだフルシチョフはスターリンの思想を徹底的に批判。当時敵対関係であった西側諸国と融和体制に入るようになります。

毛沢東は熱狂的なスターリン信者。そのためスターリン思想を手放したソ連を許せなかったのです。

そのためこの頃から中国とソ連の関係は悪化。国境地帯で紛争が起こるなど中国はソ連から離れた新たなる国づくりが求められるようになったのでした。

中国を大混乱に陥れた大躍進政策

こうしてソ連と敵対するようになった毛沢東でしたが、毛沢東はこの頃から中国の工業力を上げようと大躍進政策という経済政策を行い始めます。

この大躍進政策というものは簡単に言えば中国共産党が全ての工場を管理して徹底的な生産命令を出したというもの。

毛沢東は「15年あればイギリスの工業力は追い越せる!」として人海戦術によって中国の工業力を押し上げようとしましたが、現実からかけ離れた生産ノルマ・ずさんな管理による生産力や質の低下、挙げ句の果てには毛沢東は「スズメを駆除しろ」という命令を出して、その結果スズメが食べていた害虫によって農作物が壊滅的な被害を受けてしまうなど散々なもの。

この結果大躍進政策は世界でも類を見ないほどの大失敗に終わり、この政策によって一説には5000万人が亡くなったとされるほどの被害を出してしまったのでした。

毛沢東の失脚と劉少奇の台頭

こうしてとんでもない被害を出してしまった大躍進政策でしたが、この結果を受けて流石に建国の父と呼ばれた毛沢東も失脚せざるを得ない状況となってしまいます。

そして毛沢東は国家主席の座を辞任。その跡に劉少奇や鄧小平などの海外留学の経験がある人が就任します。ちなみに、この人のことを実権派と言ったりしました。

劉少奇はずさんな計画によって混乱した経済を立て直すためにひとまず資本主義の考えである市場経済を導入してそこから新たなる社会主義政策を取り組む方針に変更します。

こうして劉少奇の手によってひとまずは中国の経済的混乱は収まることとなるのですが、毛沢東はこれが面白くない。そもそも社会主義は資本主義とは真反対の政策であり、毛沢東からしたらせっかく社会主義国家を建国したのに、劉少奇のせいで資本主義国家へと変貌を遂げてしまうと思ったのでしょう。

さらに、中国では若者を中心として毛沢東を信奉している紅衛兵と呼ばれる集団が結成されて、この人たちも劉少奇による政策に不満を持っていました。

こうして中国は劉少奇らの実権派と毛沢東&紅衛兵の対立は決定的なものとなり、文化大革命と呼ばれる惨劇が起こるようになったのでした。

文化大革命の影響

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文化大革命は紅衛兵を中心として行われましたが、彼らはいったいどのような行動に出たのでしょうか?

次はそんな紅衛兵が起こした文化大革命の影響について見ていきましょう。

鄧小平と劉少奇への迫害

毛沢東や紅衛兵の最大の敵。それは劉少奇や鄧小平などの実権派でした。

毛沢東は劉少奇の政策について「あの政策は中国を資本主義方面に修正しようとしているものだ。修正主義者を打倒せよ」と声明を出して実権派を反革命的勢力に仕立て上げます。

さらに、この動きを見て毛沢東の腹心であった林彪や毛沢東の奥さんである江青も民衆の扇動を行い全国で『造反有理』をスローガンとして中国共産党の幹部達を迫害して行くようになりました。

その後、紅衛兵達は劉少奇を襲撃。無理矢理失脚に追い込まれてしまい、中国共産党から追放。さらには激しい拷問を受けた上に何も治療をされず苦しみながら死に絶えるという壮絶な最期を迎えるなど悲惨な目にあってしまいます。

一方の鄧小平の方はというと劉少奇のように中国共産党からは追放されたものの、紅衛兵の迫害から逃げ続けなんとか難を逃れていました。

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