平安時代日本の歴史鎌倉時代

公家社会と武家社会の違いって何?わかりやすく解説!

公家社会は明治時代まで続いた

公家社会は、平安時代末期には荘園からの収入が少なくなり、没落していくことになります。朝廷内では、以前として高い地位に就きますが、すでに国内を支配していたのは武士層であり、有名無実の状態となっていったのです。

貴族や朝廷は、武士たちに有名無実の官位を与えることで、ようやく朝廷としての体面を維持していました。それは、鎌倉時代から明治時代初期まで続きます。明治時代になると、大名などの上級武士とともに華族と呼ばれるようになり、名目的な力さえもなくなりました。

最後の公家近衛文麿は総理大臣だった

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その華族となった公家の最後の権力者が日中戦争開戦時の首相であり、国民総動員令を成立させた近衛文麿でした。

藤原家は、鎌倉時代になると、それぞれ住んでいる通りの名前をとって姓としたのです。藤原定家を祖先とする冷泉家は冷泉通りにあり、近衛家は近衛通りにありました。

いずれにしても、華族令は第二次世界大戦後に廃止となり、公家社会は完全に姿を消したのです。

公家社会の収入源の荘園を奪って成立した武家社会

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武士は、奈良時代までは存在していませんでした。すべて、朝廷から派遣される官吏が地方も管理していました。しかし、墾田永代私有法によって、貴族たちが荘園を持ち始めると、その荘園の管理を任せる人間が必要になったのです。貴族たちは金と口は出しますが、実際に地方で農民たちを管理し、開墾した農地を管理する人間が選ばれました。それは、もともと貴族に仕える人や現地でリーダー的に働く農民でした。

彼らは、荘園全体を管理して、貴族たちのために収穫物を京都に送っていました。荘園では、盗賊などが収穫物を狙って襲ってくることもあり、荘園管理者の地頭は次第に武力を持つようになっていったのです。これが、武士の最初の姿でした。

源氏も平氏ももともとは天皇家から生まれた

一方で、貴族たちの息女が宮廷に出仕して、天皇の子供を宿すことがありました。藤原氏などの息女であれば、皇后や妃となり、生まれた子供も高い位に就くことが可能です。しかし、身分の低い貴族の息女から生まれた場合には、高い地位にには就けずにいることも多く、その中には、地方の荘園に下ってその荘園の主となることもありました。

その典型が、源氏や平氏だったのです。源氏は清和源氏と呼ばれ、清和天皇の血筋でした。また平氏は、桓武天皇の血筋になります。このような天皇の血筋を引く貴公子は、地方に下っても地元の地頭たちの尊敬を受け、次第に荘園の収入が集まるようになり、再び、京都に登って地位を得るようになりました。八幡太郎源義家などは昇殿を許されるようになります。昇殿は原則三位以上の公家だけに許されていたのです。

武士層による荘園の支配権の奪取

武士たちは次第に、武士層の棟梁としての源氏と平氏ももとに分かれていきます。そして、地頭個々ではなく、武士団として、集団を組むようになり、次第に荘園を自分たちのものにしていきました。その土地、すなわち荘園の所有権を棟梁である源氏と平氏が認めることで、実質的に支配権を公家から奪っていったのです。逆に公家たちは、荘園からの収入が途絶え、実質的な権力を失っていきました

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