幕末日本の歴史江戸時代

新選組局長の「近藤勇」とは?一誠の武士の生涯をわかりやすく解説

幕末に最後まで幕府のために戦い続けて活躍した「新選組」。その局長の近藤勇(こんどういさみ)は農民の出自でしたが武士以上の誠の武士でした。副長の土方歳三を右腕として新選組を作り上げていった近藤勇の一生を一緒に追っていきましょう。

近藤勇と試衛館

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近藤勇は、天保5年(1834)に、武蔵国多摩郡上石原村(現・調布市)に百姓・宮川久次郎の三男として生まれました。幼名は勝五郎といいました。三鷹市にある龍源寺の檀家でお墓に行ったことがありますが、なんと道をはさんで近藤勇の生家がありました。ちょうど三鷹市と調布市の境界のところだったのですね。生家には「近藤勇の産湯の井戸」というのがありましたよ。けっこう色々な武将などの産湯の井戸というのは見たことがありますが、近藤勇のもあるというのはちょっと嬉しくなりますね。そして試衛館に入門して道場主の養子となるのですね。

宮川勝五郎は試衛館に入門する

近藤勇といえば試衛館となりますが、新選組を支援してくれていた多摩の名主である「小島鹿之助」が残した『両雄士伝』には「試衛」は号で、「試衛場」といっていたというのが本当らしいですが、ややこしくなるので試衛館で統一していきますね。場所は江戸牛込(現・新宿区)にありました。

嘉永元年(1848)11月11日、14歳の宮川勝五郎は天然理心流剣術道場である試衛館に入門します。翌年6月には目録をもらって道場主の近藤周助の養子になることになりました。よほどの太刀筋がよかったのでしょうね。正式に養子になる前に、まず近藤周助の実家の嶋崎家に養子になり嶋崎勝太となりました。そして近藤家と正式に養子となり嶋崎勇と名乗った後に近藤勇となったのです。安政5年(1858)の日野市にある「牛頭天王社(八坂神社)」の奉納額に「島崎勇藤原義武」と書いたものが残っていますよ。

天然理心流とは古武道の一派で剣術以外も習うことができる。

〇剣術・居合 鹿島神道流(鹿島新当流)
〇柔術・小具足術(小太刀術) 竹内流系統
〇棍法 『天然理心流棍法』
〇棒術 『天然理心流棒術』 棒・半棒・中段の3種類

入門→切紙→目録→中極意目録→免許→指南免許→印可
指南免許を得ると独立し門人を集め道場を開く事が出来る。

試衛館での近藤勇

万延元年(1860)3月29日に、御三卿である清水徳川家の家臣・松井八十五郎の長女の松井つねと結婚します(文久2年(1862)に、長女・たまが誕生)。翌年に天然理心流宗家四代目を襲名しました。

8月27日に府中六所宮で、四代目襲名披露の野試合を行います。参加したのは土方歳三・沖田総司・井上源三郎をはじめとした食客、山南敬助・八王子千人同心の井上松五郎(井上源三郎の兄)・佐藤彦五郎も参加していたという大がかりなものとなりました。源平合戦になぞらえた紅白試合となった本陣大将で行司は近藤勇。井上源三郎・沖田総司は本陣の一員で、試合には参加していません。紅組は土方歳三・山南敬助ほか計36名、白組は佐藤彦五郎・井上松五郎ほか計36名で、2対1で白組が勝ちました。そのあと羽目を外しすぎたドンチャン騒ぎをして、不参加だった小島鹿之助に怒られたそうです。

近藤勇と多摩の人たち

その頃に黒船がやってきて日米和親条約が結ばれます。多摩地方の絹は上物で評判が良かったので、この地方の農家の人たちは経済的に潤っていました。それを狙って夜盗などがやってきて、役人達があてにならないと自警のために農民達が剣術を習い出したのですよ。

日野宿の名主の佐藤彦五郎は、同じく多摩軍小野路村(現・町田市)の名主の小島鹿之助のすすめで天然理心流の門人となり、屋敷内に稽古場を作っていました(小野鹿之助の屋敷にも道場がある)。そこに佐藤彦五郎の妻の弟である土方歳三が居候同然にいて門人となったのです。よくドラマや小説では幼なじみ設定が多いですが、ここで始めて出会ったのだといわれてますね。勇・彦五郎・鹿之助は『三国志演義』にならって義兄弟の契りを結んでいたそうです。

他にも実家の宮川音五郎・惣兵衛、寺尾安次郎や、後の新選組一番隊組長になる沖田総司の姉婿で沖田家を継いだ沖田林太郎などとも交流がありました。この人達は京都に行っても交流があって、新選組が金銭的に苦しい時には援助をしてくれていますよ。

近藤勇は講武館の指南役に落選した

講武館というのは安政2年(1855)2月に、幕府が新設した旗本や御家人の子弟たちに武芸や西洋の砲術を学ばせようとした学校です。当初は農民出身であっても、腕に覚えのある剣客たちはみな講武所の指南役になれたのですが、そのうち「武士が農民に教えを請うなんてけしからん」という風潮になって、近藤勇は指南になる寸前までいったのに農民出身だということがわかって落選してしまいました。近藤勇の落胆はものすごく半年くらい書斎に引きこもりになってしまい、稽古にも出てこなかったといいます。

近藤勇にしてみれば、講武館の指南役になれば道場も流行るし、流行ったら住み込んでいる剣客(土方歳三・沖田総司・井上源三郎・山南敬助・永倉新八・原田佐之助)たちも潤うだろうと思っていたんでしょうね。そんな落ち込んでいる近藤勇の元にひとつの話が舞い込んできます。

近藤勇は浪士隊に参加する

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落ち込んでいるところに、永倉新八が浪士隊募集の話を聞きつけてきて近藤勇に伝えます。この浪士隊というのは、徳川14代将軍家茂が上洛をするのを警護するというもので、旗本の松平忠敏、出羽国庄内藩出身の清河八郎が幕府に献策したものでした。腕が立つ者は身分問わずに参加できるという画期的なものだったのですよ。近藤勇は多摩出身で、戦国武将の武田信玄・勝頼の旧家臣たちが徳川家に召し抱えられたことから「自分たちが徳川家を守る」という気風のあるところで、井上源三郎の兄の松五郎などは八王子千人同心という身分でしたので、徳川のために、この混乱した世の中で自分がなにかできるのではないかという気持ちが、近藤勇を奮い立たせたのでしょうね。

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紫蘭