屯田兵事業から発足した第七師団の始まり
北海道の大地に鎮座し、日本の北辺の守りを担った第七師団の始まりもまた北海道の地でした。しかし、その発祥は他の地方の師団とはまるで異質であり、まさに日本が推し進めた国策と、北海道という特殊な地域性に起因していたのです。
明治維新と屯田兵事業
徳川幕府が倒れ、続く戊辰戦争においても新政府軍が勝利を収めると、常備軍編成の必要に迫られた明治政府によって兵制の改革が行われました。全国に鎮台(ちんだい)という司令部を設置し、意のままに動かせる兵力を動員できるようにしたのです。
当然北海道も、北にはロシアという大国を控える地域であるために防備の必要性があるのですが、ここを守るにしてはあまりに人口も少なく、兵力を派遣するにしても費用が掛かりすぎるというジレンマに陥っていました。
そこで考えられたのが、戊辰戦争に敗れて大きな痛手を負い、財政的にも逼迫していた東北諸藩の旧藩士たちを北海道へ移住させることだったのです。その土地を自らの力で開墾させれば、開拓地も広がるし、現地兵力として軍事力としても活用できる。という一石二鳥の政策が推し進められました。
開拓に従事しつつ、非常時には兵隊として軍事力に組み込める人たちのことを【屯田兵(とんでんへい)】と呼びます。やがて時間が経過するととともに、全国各地から屯田兵志望の士族らが集まるようになり、1899年までには北海道全域で屯田村が37を数えるまでになりました。その家族を含めた4万人もの人々が新天地に夢を求めたのです。
旭川に拠点を置く第七師団が発足
現在でも札幌市琴似などで旧屯田兵屋などが残りますが、日頃の過酷な農作業と合わせて軍事鍛錬も怠らなかった彼ら屯田兵たちは、日本最後の内乱ともいわれる西南戦争にも駆り出されました。かつての戊辰戦争で、薩摩を中心とする新政府軍によって散々に苦しめられた東北の士族たちが、今度は逆に薩摩を攻撃する番となったことは、あまりにも皮肉なものですね。
そして、この屯田兵たちを主体として、北海道旭川に陸軍第七師団が1896年に誕生しました。初代師団司令官は永山武四郎。これまた皮肉なことに、永山もまた薩摩出身の人物だったのですが、明治の初めから開拓使として北海道へ渡っていた彼は、屯田兵事業の育ての親でもあり、屯田兵たちと辛苦を共にした間柄だったのでした。それもそのはず。歴代の北海道庁長官のうち、北海道にお墓があるのは永山くらいのものでしょう。
ちなみに「第七師団」のことを「だいななしだん」とは言わず、「だいしちしだん」と呼ぶそうです。理由は以下の通り。
第七師団の「七」は、「なな」ではなく「しち」と読む。北鎮記念館によると、1896年(明治29年)5月に第七師団が創設され、明治天皇が初代師団長に永山武四郎を任命した際、「しち」と読んだのが由来という。
引用元 「第七師団旭川の礎」北海道新聞 平成27年1月12日より
第七師団の戦い【日露戦争】
屯田兵を主体として編成された第七師団は、続く日清戦争にも出征。東京で待機したまま終戦を迎えますが、続く日露戦争によって本格的な師団としての活躍が始まりました。日本に残った最後の精鋭師団としての実力を遺憾なく発揮したのです。
203高地奪取の立役者となった第七師団
1904年2月、旅順港のロシア艦隊への奇襲攻撃から始まった日露戦争でしたが、軍事大国ロシアに対して、決して多くはない兵力を結集した国家の威信をかけた総力戦となりました。
戦地への補給路の確保と制海権を抑えるためには、旅順にある港にいるロシア艦隊を封じ込めるしか手段はなく、ロシアが誇る永久要塞【旅順要塞】の攻略作戦が展開されたのは1904年8月のこと。兵力の損耗を度外視した攻防戦は日本軍にとって回復不可能のダメージを与え、第一次、第二次にわたる総攻撃が失敗したことにより、第三軍(第一、第九、第十一師団)はほぼ壊滅してしまいました。
そこで日本内地に残る最後の精鋭師団である第七師団に白羽の矢が立ったのです。第三次総攻撃の直前に中国の大連に上陸した第七師団は、11月26日に総攻撃に参加。当初は予備として後方支援を行いますが、203高地奪取に失敗した第一師団が壊滅してしまうと第七師団が指揮権を継承し、いよいよ主力として敵と相対します。
11月30日、第七師団隷下の第二十七連隊が203高地を攻撃。翌12月1日には何とか高地の一部のみを占領しますが、ここで死傷者収容のために3日間休戦。そして12月4日に攻撃が再開されるや近隣の赤坂山堡塁を奪取。続く12月5日には203高地の完全制圧に成功したのです。翌年1月初めまで攻防戦は続きますが、もはや戦いの趨勢は明らかとなっていました。この第七師団の活躍が旅順攻防戦の決定打となったといえるでしょう。
北へ転進。そして奉天会戦へ
旅順要塞を落とし、勢いに乗ってロシア軍に対して大打撃を与え、早期に講和を結びたかった日本軍は一大決戦を挑みました。北進を開始した第七師団も2月17日には集結を終え、奉天会戦を迎えます。
2月27日、いよいよ動き出した第七師団は、ロシア軍の右翼を圧迫するために進撃。ここで作戦の意図に気付いたロシア軍がこの方面へ兵力を集中し、第七師団は大苦戦に陥りました。しかし、秋山好古率いる秋山支隊が増援に回ったことにより戦況が好転。所在のロシア軍部隊を撃破して奉天の西側へ回り込みました。
兵力に勝るロシア軍は、なおも各方面で頑強な抵抗を続けたため戦況は膠着状態に陥ります。ところが3月7日、ロシア軍が戦線整理のために一部を後退させた隙に乗じて追撃に転じ、ついにこの方面からロシア軍を駆逐したのでした。しかし日本側も大きな打撃を受けていたために、それ以上の追撃ができず、決定的な勝利は望めなくなっていました。
日露戦争の帰趨は、その後の日本海海戦によって決定づけられますが、第七師団の活躍もまた日本の勝利に寄与したのは疑いのないところでしょう。この一連の戦いで第七師団が受けた損害は死者3142人、負傷者8222人となっており、まさに壊滅寸前まで戦い抜いた激戦だったことがしのばれますね。
※師団とは?
ここで「師団」という単位について解説します。旧日本軍はじめ世界中のどこの軍隊にも、軍隊を編成するための細かい組織を作っていました。
「師団」を構成する兵員は、日本の場合はおおむね1万5千人前後。同じ師団の中に「師団司令部」、「歩兵部隊」、「輜重部隊(輸送を担う)」、「砲兵部隊」、「通信部隊」、「衛生部隊」などが含まれていました。もっと細かく見ていくと、師団→連隊→大隊→中隊→小隊→分隊といった具合に細分化されますので、数人単位にまで細かく組織が分かれていたことがわかりますね。
さらに師団を複数統括する組織として「軍」があり、日露戦争の時には第七師団は第三軍に配属されていました。「軍」の上にはさらに「方面軍」という単位があり、日本軍の軍制の根幹を担っていたのです。