日本の歴史江戸時代

精巧な日本地図を徒歩で作り上げた男「伊能忠敬」その生涯とは?

伊能忠敬(いのうただたか)とは、江戸時代中期に日本地図を作成した人物。衛星や航空写真のない時代に、非常に正確で精巧な地図を「海岸線を歩いて記録する」という地道な作業を積み重ねて作り上げた大人物です。いったいどんな人物で、どんないきさつから地図作成に携わるようになったのでしょう。今回はそんな伊能忠敬の生涯と人物像に迫ってみたいと思います。

伊能忠敬の生涯(1)生誕~隠居まで

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伊能忠敬という名前は、おそらくほとんどの人が一度は聞いたことがあるでしょう。そしてイメージするのは、わらじ履きで海岸線をコツコツと歩く姿。かなり年配の男性を思い浮かべる人が多いのではないかと思います。実は伊能忠敬は武士や学者ではなく、一介の商人。地図作成に携わるのは五十歳を過ぎてからなのです。若いころの伊能忠敬とはどんな人物たっだのでしょう。隠居する前までの様子を追いかけてみましょう。

生まれは上総国・下総国の酒造家へ婿入り

伊能忠敬は延享2年(1745年)1月11日、現在の千葉県山武郡にあたる上総国山辺郡の小さな村の小関家に生まれました。幼少期の詳しい記録は残されていませんが実家は酒造家で、幼名は三治郎。三人きょうだいの末っ子だったと伝えられています。

子供時代の伊能忠敬は、寺や近所の家々を渡り歩いて算術などを学んでいました。聞くところによるとかなり優秀だったのだそうです。また、非常に勤勉で働きものであったとも伝わっています。後の地図作成の偉業を成し遂げた粘り強さ・根気強さ・意志の強さは、すでに幼少期に培われていたのかもしれません。

宝暦12年(1762年)、伊能忠敬は遠縁にあたる伊能家へ婿入りします。この頃「忠敬」という名前を受けたのだそうです。

忠敬が婿入りした伊能家は下総国香取郡の佐原村。現在、レトロな水郷風景が人気の千葉県香取市佐原にありました。当時も水運を活かした輸送業が盛んで、江戸まで物資を運ぶ交通の要衝であった佐原村。伊能家はこの地で酒造業を営んでいましたが、当時は後継者不足などに悩まされ、やや傾いた状態にあったと伝わっています。

商売人として才覚を発揮・人徳ある当主に

伊能家に婿入りしたとき、忠敬はまだ十代でした。若いが家名を守らなければならないという重責に、忠敬自身、かなり悩まされていたようです。

そんな中、忠敬は事業家としての才能を発揮。酒造りをはじめ、コメ、薪などの取引でコツコツと成果を上げ、地域の名家たちとのきずなも深めていきます。伊能家は息を吹き返しました。

単に事業家として成功しただけでなく、利根川氾濫などの災害や飢饉の際には困っている人々に手を差し伸べたとも伝わっています。天明の大飢饉の際には私財をなげうって食料を地域の人々に届け、救済に力を尽くしたのだそうです。この行為によって農民たちの不満を抑えることができ、佐原村では打ちこわしなどの暴力行為を防ぐことができたとか。名実ともに、伊能忠敬の名前は周辺の地域に知れ渡っていきました。

天明の大飢饉の救済に奔走していたころ、忠敬は最初の妻を病気で亡くしています。その後、後添えを迎えた忠敬は、寛政2年(1790年)、成人した長男に家業を任せて隠居を考えるようになったのだそうです。

四十九歳・隠居して天文学の道を志す

隠居の願い出を役所が認めたのが寛政6年(1794年)。忠敬は四十九歳になっていました。

当時の忠敬は、地元の役人たちからもかなり頼りにされており、その関係もあって、隠居願い出は何度か退けられてしまったとも伝わっています。

ここまで、佐原村の名主として人々を束ね、舟運業を通じて河川の土木事業などにも携わっていましたが、地図作成そのものとはまったく無縁。ただ、隠居後に地方へ旅に出た際、方位や天体の様子などかなり細かく記録を書き残していたのだそうです。

この頃、忠敬が興味を示していたのが暦学でした。暦は、天体の動きと切っても切り離せない間柄にあります。忠敬も事業の合間に夜ごと空を見上げ、天体観測を行っていたようです。

隠居して時間を作り、暦学を極めたい、天文を学びたい。長男に家業を任せてのんびり、など考える忠敬ではありませんでした。齢五十を前にして、江戸へ出て勉学を修めたいと考えるようになったのです。

伊能忠敬の生涯(2)暦学・測量の道へ

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商人として才能を発揮し成功を収めた伊能忠敬。家業は軌道に乗り、かなりの財を築いたとも伝わっています。地域の人々に慕われ尊敬されながら、そのままのんびり、興味ある天文学の本でも読みながらご隠居さんとして過ごすこともできたはずなのに、学びの道を選んだ伊能忠敬。ここからは、地図作成に至るまでの足跡をたどります。

暦に夢中!年下の天文学者・高橋至時に弟子入り

寛政7年(1795年)、忠敬は江戸へ。深川の黒江町というところに住居を構えます(現在の門前仲町近く)。

当時の江戸では、幕府主導のもと、改暦の必要性が叫ばれていました。当時、日本が使用していた暦はまだ完全なものとは言えず、もっと精度の高い暦を求める声が高まっていたのです。

暦の作成には、高い天文学の知識と算術の技術が必要になります。この時、幕府が召喚したのが、江戸後期の天文学者・高橋至時(たかはしよしとき)。至時は当時の幕府お抱えの天文学者より優れた技術と知識を持ち合わせていたと伝わっています。

どのようなつながりがあったかについては諸説あるようですが、江戸へ出てまもなく、伊能忠敬は高橋至時に弟子入り。このとき高橋至時は三十一歳でした。

ふた回りも年下の男を忠敬は師と仰ぎ、熱心に学んだと伝わっています。もともと算術に長けていた忠敬ですが、昼夜なく天文観測や測量技術の勉強に没頭していたようです。

すべては暦のために・地球の大きさを測りたい!

寛政9年(1797年)、高橋至時は幕府の命を受け、同じく天文学者の間重富とともに「寛政暦(かんせいれき)を完成させます。それまで使われていた「宝暦暦(ほうりゃくれき)」の評判が芳しくなかったため、西洋天文学を参考に月や太陽の動きをより詳しく取り入れ、より正確な暦を作ることに成功。しかし至時は、この暦にもまだ、改変の余地があると考えていました。

より正確な暦を作るにはどうしたらよいか。それには、地球の大きさを正確に知る必要があると、至時は考えていたようです。しかし地球そのものの大きさを実際に測ることはできません。地球が球体であることはわかっていましたので、円弧が分かれば地球の円周を計算することは可能ですが、何せとてつもなく巨大な球体のこと。わずかな差でも、計算結果は大きく狂ってしまいます。

この頃忠敬は、自身の自宅から浅草までの測量を行うなどして、実際に測れる範囲で緯度の差を割り出していました。それを地球の大きさの測定に活かそうと考えたようです。

しかしいくら何でも、深川と浅草との間の距離から割り出した緯度の差では値が小さすぎる……。忠敬からの報告を受けた至時から「江戸から蝦夷地(北海道)くらいまでの距離の測定結果があればいけるかも」との提案が。夢物語として語り合っていただけかもしれませんが、このときの会話が、まもなく現実のものとなるのです。

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