東京大空襲へ至るまでの道のり
東京大空襲は、ある日突然、米軍から爆撃を受けたというわけではありません。もちろんそこへ至るまでの経緯があり、もしかしたら空襲を防ぐことだってできた可能性すらあるのです。結果的に無謀な戦争の代償は高くつき、そしてその代償を払うことになったのが国民なのでした。
日本の隙を突いた東京初空襲
By U.S. Navy (photo 80-G-41196) – This media is available in the holdings of the National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 520603., パブリック・ドメイン, Link
昭和17年4月、東京を含む関東一円は初めての空襲に見舞われました。太平洋戦争が開戦して以来、連戦連勝で浮かれていた日本に冷や水を浴びせかけた出来事でした。
米空母ホーネットとエンタープライズに搭載された爆撃機B25は、16機の編隊で東京や横須賀などを爆撃。損害は比較的軽微でしたが、ここで日本側は警戒網と情報網の甘さを露呈したのです。事前に監視船が米空母部隊を発見しておきながら、その情報を生かすことができず、結局1機も撃墜することはできませんでした。
「空母の接近による本土空襲」を防ぐ意味も込めて、米空母撃滅のために生起した作戦がミッドウェー海戦でした。しかし日本海軍は逆に虎の子の主力空母4隻を失うという大打撃を受け、以降は機動部隊による作戦主導はできなくなってしまいました。いよいよ日本は守勢に回ってしまったのです。
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相次ぐ日本軍の敗退
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「米軍に大きな打撃を与えて早期講和に持ち込む」という戦争当初の目的は失われ、日本軍はまるで大きく膨らんだ風船のように戦線を拡大していきました。戦場では絶えず戦力不足を引き起こし、ガダルカナル島のようなさして影響のない戦場に固執するあまり、なけなしの戦力をすり潰していたのです。
昭和19年に入ると、日本の敗勢はもはや決定的となり、絶対国防圏と称して守りを固めた地域も、圧倒的な米軍の戦力の前に破砕されていきました。激戦の末サイパン島が奪われたのは昭和19年7月のこと。米軍がこの島を手に入れたことで、日本本土へ無給油で往復できる超大型爆撃機B29の拠点が完成したのです。
さらには10月、フィリピンへ侵攻した米軍によって所在の日本軍は蹴散らされ、連合艦隊も壊滅的な打撃を蒙ってしまいました。翌年まで戦いは続きますが、フィリピンを奪われたことで南方からの資源輸送はまったく途絶し、日本の継戦能力も失われたのでした。
この明らかに負けが確定した時点で、日本が降伏または停戦していれば、この後に続く悲惨な日本本土空襲は防げたといえるでしょう。そして原爆が投下されることもなかったでしょう。
しかし、日本の指導層はそうはしませんでした。「米軍に大打撃を与えて有利な講和条件を引き出す」ことのみに執着し、国民の苦しみをよそに、ひたすら日本のメンツだけを守ろうとしたのです。
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ルメイの司令官就任と戦略方針の転換
東京大空襲以前にも本土空襲は頻繁に行われていましたが、主に軍事目標が爆撃の中心であり、民間人を殺傷するための無差別爆撃は表立っては行われていませんでした。
ところが昭和20年1月、第21爆撃集団司令官としてカーチス・ルメイ少将が就任するや戦略方針は一変します。米軍はすでに日本を無差別爆撃するための専用焼夷弾を開発し、シュミレーションも行っていましたが、ルメイはそこに具体的な戦術マニュアルを付け加えたのです。いかに効率よく、いかに最大の効果をもって日本人を殺せるか?そこに疑問や躊躇はありませんでした。
昭和20年3月10日、運命の日
By United States Army Air Forces – http://www.japanairraids.org/?page_id=2769 direct link: http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2011/09/Tokyo-A3851a.jpg, パブリック・ドメイン, Link
昭和20年3月10日、いよいよ帝都東京にとって運命の日がやってきました。10万人もの犠牲者を出した東京大空襲とは何だったのか?詳しく見ていきたいと思います。
下町を執拗に狙った無差別絨毯爆撃
3月9日夜半は特に風が強い日で、午後10時過ぎに空襲警戒警報があったものの、程なく解除されて都民は安らかな眠りについていました。しかし、強風のために日本軍のレーダーは役に立っておらず、ほとんど気付かれないまま爆撃隊300機は都内へと近づいていたのです。
日付が変わった0時過ぎ、東京下町では大音響とともに焼夷弾の雨が降ってきたのでした。第1弾は深川区に投下されましたが、再び警報が鳴ったのはその7分後。築地、神田、江東などの市場や、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標となり、この間に次々に投下された焼夷弾は下町の密集家屋を焼き尽くします。
木造家屋の屋根を突き破って、家の中で油脂を飛散させ燃焼する構造のため、いったん火が付くと消火する術はありません。また燃焼にマグネシウムが使われていたため、服に火がついて水の中へ逃げても燃え続けていたといいますね。
虚を突かれた都民たちは逃げ惑うだけで精いっぱいで、消火どころではありません。火避け地を作るための建物疎開も行われていましたが、焼夷弾の油脂によって高温にまで熱せられた炎は空き地を飛び越えて延焼を繰り返しました。
無理に火を消し止めようとして踏みとどまった人や、家財道具を守ろうとして大きな荷物を持った人たちが真っ先に逃げ遅れて焼け死んだそうです。また、子供を助けようとして逃げ足が遅れた親子も多くが犠牲になりました。