日本の歴史

日本史の中で活躍した素晴らしい外国人たち5選

日本の過去の歴史を振り返れば、歴史上さまざまな出来事や戦争があり、今日に至るまで議論になったり、教科書に載ったり、書籍になったり、あるいはドラマや映画など映像化されていたりなどしますよね。でも、日本の歴史って日本人だけが作り続けてきたものなのでしょうか?この狭い島国日本の中にいるだけでは知り得なかった世界を人々に伝え、教え、そして紡いできた外国人がいたからこそ、現在の日本の歴史があるのではないでしょうか。危険を冒し、はるばる波濤を越えて日本へやってきた外国人たち。最新の研究も交えて、そんな彼らの功績をご紹介したいと思います。

苦難を乗り越えながらも日本へやってきた高僧【鑑真 688年-763年】

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鑑真(がんじん)といえば、奈良時代の中国出身の高僧で、中学の日本史の教科書でいえば最も初めの頃に教えてくれる人物ですね。【鑑真和上像】という、この方を模した像を写真などでご覧になった方も多いのではないでしょうか。

日本からの懇願を受けるも相次ぐ渡海の失敗

日本に仏教が伝来して200年ほど経った奈良時代のこの時期、国家的プロジェクトで各地に大きな寺院が建立されて、多くの僧も生まれていましたが、まだまだ大陸仏教のマネごとばかりで、仏教の教えが何たるものかも理解されていないままの状態が続いていました。

時の聖武天皇は「これではいけない」と思い立ち、唐で名の通った高僧を日本へ招いて、何とか本格的な仏教を教えを継承したいと考えていました。そこで白羽の矢が立ったのが4万人もの人間を得度(僧になれるように授戒させること)させた鑑真だったのです。

日本からの懇願を受け、危険を冒して東シナ海を渡って来日しようとしますが、そのたびに暴風雨や唐の役人たちに邪魔され、思うようにいきません。渡海は5度も失敗し、その間に鑑真は失明してしまうなどの苦難を味わいますが、6度目の渡海でようやく成功。なんとか沖縄から九州へ渡り、陸路で奈良へ向かったのでした。日本へ渡ることを志してからすでに10年の歳月が経っていたのです。

 

日本で精力的に活動する鑑真

754年、日本へ渡った鑑真はすでに66歳になっていました。奈良へたどり着いた彼は、そこから精力的に活動を開始します。それまでの日本では、僧はみんな授戒することなく「自分は僧である」と自称しており、厳しい戒律もあって無きが如くでした。東大寺に拠点を置いて授戒の総本山とし、ここで400人以上の人々に戒律を授けました。実質的な日本の仏教のスタートは、この時からだったということもいえるでしょう。

759年、奈良に唐招提寺を創建し大僧都に任じられます。しかし鑑真の目は仏教や政治だけにとどまらず、一般庶民のほうにも向けられていました。「仏教による鎮護は人々の安定した生活があってのこと」そう考えた彼は、貧民救済のために悲田院を設け、社会的弱者の保護に当たることに。また、唐の優れた医療技術を持ち込み、この頃に漢方医学が日本へ伝来したものと考えられているのです。

鑑真が日本に滞在していたのは、わずか9年という短い歳月。しかし彼がもたらした仏教の戒律や、社会福祉への考え方は、現在にまで息づいているのです。

「元寇にひるむな!」北条時宗の師となった高僧【無学祖元 1226年-1286年】

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鎌倉五山のひとつである円覚寺。この寺は中国からやってきた無学祖元(むがくそげん)が開祖だとされています。禅宗の盛んだった鎌倉時代後期に、無学祖元は北条時宗の師となり、そして激動期を生き抜く鎌倉武士たちの心の支えとなったのです。

南宋の滅亡と北条時宗との出会い

鎌倉時代後期、中国大陸では元(モンゴル帝国)の圧迫を受けて、南宋が滅亡寸前となっていました。当時、無学は修行中の身でしたが、彼が避難していた能仁寺にもモンゴル兵が乱入してきます。他の僧たちは難を避けて逃げ出す中、無学だけは、たった一人で座禅を組んでいたのです。

そこへモンゴル兵がやって来て、彼の頭に刃を振りかざした瞬間、無学は【臨刃偈】という詩を詠み始めたのでした。その意味はこうです。

乾坤孤筇を卓つるも地なし 喜び得たり、人空にして、法もまた空なることを 珍重す、大元三尺の剣電光、影裏に春風を斬らん

(天地はもとより人もすべて実体のない「空」なのだ。あなた方が帯びている大剣で私を斬ろうとも、それはあたかも春の風を斬るが如く虚しいものとなろう)

モンゴル兵の中にも学のある者がいたのか、無学の知見と度胸に恐れ入って退散したのでした。

その数年後、無学は日本からの招きを受け入れて渡海することを決意します。招いたその人物こそ鎌倉幕府第8代執権【北条時宗】なのでした。

時宗を叱咤激励する

無学が来日する以前の1274年、服属要求を拒んだ日本に対して元の大軍が北九州を襲っていました。文永の役といい、その時には辛くも元軍を撃退しますが、受けたダメージも大きく、再度の来寇に備えて大量の武士たちを北九州に配置させていたのです。

悩める若き執権時宗の師となった無学は、時宗をこう諭します。「思い悩むことなかれ。不安や葛藤、過去の後悔や未来への憂いを失くし、ただ一心に前へ、前へと進むべし。」この言葉は【莫煩悩(まくぼんのう)】というのですが、この無学からの叱咤激励が時宗を突き動かす原動力となったのはいうまでもありません。

1281年、ついに元軍が10万の大軍をもって再び来寇しました。無学の薫陶を受けた時宗は少しも慌てず、気迫をもって事に当たり、北九州に展開している日本軍も恐れることなく大軍に立ち向かいます。結果、元軍は暴風雨を受けて壊滅。日本の大勝利に終わり、こうして危機は救われたのでした。

元寇から3年後、時宗はまるで重い荷を降ろしたかのように亡くなりました。時宗を失った悲しみで無学も中国へ帰ろうとするのですが、多くの鎌倉武士たちが泣いて引き止めたのでした。「私には皆に教えることがまだあるのだな。」そう感じた無学は、2年後に死するまで多くの者を導いたと言われています。

偉大な歴史的史料を残してくれた宣教師【ルイス・フロイス 1532年-1597年】

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日本にキリスト教を初めて伝えたフランシスコ・ザビエルも偉人のうちの一人なのですが、私たちが今日、目にすることができる歴史的事実を詳細に記述し、記録として残したルイス・フロイスもまた大きな偉人に違いはありません。日本人が書いた日記や随筆などとは違い、客観的観点に基づく彼の記録は、まるで目の前にある絵のようにリアリズムに溢れているのですね。

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明石則実