室町時代戦国時代日本の歴史

キリスト教迫害から一転キリシタン大名となった「有馬晴信」とは?波乱の生涯をわかりやすく解説!

江戸時代になると完全に禁じられたキリスト教ですが、戦国時代には戦国大名自らキリスト教を信仰し、保護した例も少なくありませんでした。今回ご紹介する有馬晴信(ありまはるのぶ)は、当初、キリスト教を弾圧しましたが、一転、改宗し、キリシタンを手厚く保護するようになります。しかし、その後の彼はペテン師にはめられ、思わぬ最期を遂げることとなるのでした。では、彼の生涯を解説していきたいと思います。

龍造寺氏の圧迫にあえぐ中、キリスト教に改宗する

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有馬晴信が生まれたころの有馬氏は、近隣の龍造寺(りゅうぞうじ)氏の勢力拡大により、かなり苦しい状況でした。兄の死に伴い家督を継ぐことになった晴信は、その傘下に入ることとなります。そんな中、彼はキリスト教に改宗しました。そこには、様々な思惑が絡んでいたようです。晴信の少年時代を見ていきましょう。

兄の死によって家督を継ぐことになる

有馬晴信は、永禄10(1567)年、肥前日野江城(ひぜんひのえじょう/長崎県南島原市)主・有馬義貞(ありまよしさだ)の二男としてこの世に生を享けました。ちなみに、同い年の戦国武将は伊達政宗や真田信繁(さなだのぶしげ)になります。

二男だったため本来は家督を継ぐ見込みはありませんでしたが、元亀2(1571)年、家督を継いだ兄・義純(よしずみ)が22歳の若さで亡くなったしまったため、晴信は兄の養子となり、跡を継ぐこととなったのです。

龍造寺隆信に従う

跡を継いだとき、晴信はまだ5歳でした。それだけでも家にとってはピンチでしたが、この頃、有馬氏には近隣の龍造寺氏などの強敵がおり、生き延びるだけで精一杯だったのです。このため、おそらく重臣たちの推進により、晴信は龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に従うこととなりました。

天正4(1577)年、敬虔なキリシタンだった父・義貞が亡くなります。伝承ですが、晴信は宣教師に会いたいという父の願いを拒絶し、その死後に教会や十字架を破壊したとも伝わっているそうです。まだ幼いですから、何もわからなかったのかもしれません。

キリスト教に改宗、その背景は?

そんな晴信でしたが、その後洗礼を受け、キリスト教に改宗します。洗礼名は「ドン・プロタジオ」と言いました。

なぜ晴信は急にキリシタンになることを決断したのでしょうか。

その背景としては、従属している龍造寺隆信が全盛期を迎えており、「肥前の熊」と呼ばれて恐れられている彼にいつやられるとも限らないという状況があったからです。また、キリシタンになれば、日本に続々とやって来るキリスト教宣教師たちとのパイプができ、彼らの母体であるイエズス会とその背後にいるポルトガルから西洋式の武器や弾薬を輸入できると踏んでいました。鉄砲には火薬が必要でしたが、これは輸入しなければまず手に入らないものでした。

純粋な信仰心とは少々異なる経緯でしたが、こうして晴信はキリシタン大名となったのです。

龍造寺隆信の支配から脱し、独立をはかる

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キリシタン大名として精力的に活動する一方で、晴信は龍造寺隆信の支配から脱却することを考え始めていました。そのために頼った先は、勢いさかんな島津氏です。島津氏と連合した晴信は、沖田畷(おきたなわて)の戦いで龍造寺隆信を破り、見事独立を果たしました。晴信がもっとも戦国武将らしかった時代を見ていきましょう。

天正少年遣欧使節の派遣

キリシタン大名となった晴信は、外国との活発な貿易に乗り出します。中でも特筆すべきは、大友宗麟(おおともそうりん)大村純忠(おおむらすみただ)など、九州の有力なキリシタン大名と行った天正少年遣欧使節の派遣でした。派遣された少年たちの中には、晴信の従兄弟である千々石(ちぢわ)ミゲルの姿もあったのです。そして、彼らはみな、晴信が設立したキリスト教の神学校「セミナリヨ」で学ぶ少年たちでした。

こうして、晴信はキリシタンの庇護者となり、ポルトガルなど海外とのパイプを強めていったわけです。

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