4-1.我が子信孝の活躍
江戸時代に編纂された「寛政重修諸家譜」によれば、伊勢の豪族だった坂氏の娘といわれており、信長の三男(正しくは次男)の信孝(のぶたか)の生母だとされています。
母の華屋院の身分が低いために三男扱いになってしまい、伊勢の有力武将だった神戸氏(かんべし)へ養子に出されることになりました。
伊勢長島一向一揆との戦いで初陣を果たした信孝は、その後も目覚ましい働きを見せつけ、「織田にその人あり」と謳われました。また朝廷との交渉役としても力量を発揮し、知勇に優れた青年武将へと成長していったのです。しかし、その運命を暗転させたのが父信長の死でした。
4-2.秀吉と敵対する信孝
信長が亡くなった本能寺の変ののち、織田家重臣たちを中心に開催された清州会議をきっかけとして、信孝と華屋院の運命は坂道を転がり始めました。
逆臣明智光秀を討った羽柴秀吉の功は大きかったものの、織田家の跡目を継いだ三法師の後見人として収まり、岐阜城を与えられることになりました。
しかしその後、秀吉側と反目。柴田勝家とともに対秀吉の急先鋒となった信孝は岐阜城へ籠城しますが、この時は柴田勝家の救援が望めず、信孝は娘と華屋院を人質に出して事なきを得ます。
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4-3.信孝と運命をともにした華屋院
1583年、柴田勝家はじめ滝川一益らと結んだ信孝は再び岐阜城で挙兵したのです。秀吉の力を見誤った甘い判断が命取りになりました。
後ろ盾だった柴田勝家は賤ヶ岳の合戦で敗死、信孝自身も次兄である信雄の軍勢に岐阜城を囲まれ降伏します。その後、尾張の大御堂寺へ身柄を送られて幽閉されますが、最後は自害を申し付けられ、26年の短い生涯を閉じました。
いっぽう人質となっていた華屋院と信孝の娘も許されることなく、安土城近くの慈恩寺にて処刑されてしまったのです。戦国の習いとはいえ、あまりに哀れな最期でした。
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5.豊臣家の奥向きを差配することになった信長の側室【お鍋の方】
信長との間に二男一女をもうけた【お鍋の方】。この人もまた乱世の中でその運命を弄ばれた人でした。幸福な前半生と幸薄い後半生との極端な対比は、戦国に生きる女性そのものの姿だったのかも知れません。
5-1.戦いを逃れ、信長の庇護を受ける
お鍋の方は、近江(滋賀県)の小田郷に居をおく高畠氏の娘で、近隣の武将だった小倉右京亮実房に嫁いで息子を二人もうけていました。
ところが夫が織田方に味方したために、近江の戦国大名六角義賢に攻め滅ぼされてしまったのです。右京亮と織田信長とは古い知己の仲であり、お鍋の方とその子供たちは信長によって保護されました。
未亡人となったお鍋の方は、やがて信長の側室となり、新たに信長の血を受け継ぐ二男一女の子供たちをもうけたのです。
夫の仇だった六角氏は信長によって滅ぼされ、安土城の完成とともにお鍋の方は小田(現在の近江八幡市西部)の地に屋敷を構え、そこで信長との新しい暮らしを始めました。
お鍋の方が暮らしていた小田に伝わる子守唄の一節で、このようなものがあります。
「小田はよいとこ お鍋の方が 殿をまねいたこともある」
当時のお鍋の方と子供たちの微笑ましい光景が目に浮かぶようですね。
5-2.度重なる不幸
しかし、そんな幸せな生活も長くは続きませんでした。本能寺の変が起こって信長が亡くなったのです。また前の夫との間にできた次男も小姓として仕えており、討ち死にしてしまいました。
羽柴秀吉に保護されたのちは、現在の東近江市高野の地に屋敷地を与えられ、そこに暮らしたそうです。その地は現在でも「お鍋館」「姫屋敷」ともいわれており、発掘調査の結果、石垣や出入り口などが見つかったそうで、現在でも川原石で組んだ石垣が50メートルほどの長さで続いています。
その後、秀吉の正室おねに仕え、大坂城の奥向きにおいて重きをなすようになり、信長側室筆頭としての存在感を示しますが、彼女にまだまだ不幸が訪れるのです。
秀吉死後に起こった関ヶ原の戦いで、信長との間にできた二人の男子(信高、信吉)はいずれも西軍に味方してしまい、高野の所領は没収されて流浪の身となってしまいました。
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5-3.不遇の晩年
ようやく京都で腰を落ち着けて隠棲したお鍋の方ですが、その生活はたいへん貧しかったそうです。大坂城の淀殿からわずかばかりの援助を受けつつ暮らしを繋いでいたとも。
1612年にお鍋の方は亡くなり、屋敷のあった小田の住人達はその最期を悼み、塚を作って松を植えたそうです。現在は枯れてしまいありませんが、「おなべ松」と呼ばれていたとも。
ちなみに西軍に属して改易されてしまった息子の信高は、後年になって幕府旗本として復帰し、実はその子孫がプロフィギュアスケーターの織田信成さんだということです。