室町時代戦国時代日本の歴史

織田信長の妻を全員紹介!正室、側室、継室の違いや役割は?

2-2.謎に包まれた結婚生活

斎藤家の菩提寺である常在寺に、濃姫が父道三の肖像画を寄進したことなどは知られていますが、結婚してから濃姫がどのように暮らし、どのように亡くなったのかは、あまりよくわかっていません。

道三を父に持ち、夫が信長だったという超メジャーな存在でありながら、これほどまでに記録に残らずに伝わっていないというのは不思議なことですね。

その理由を、結婚してほどなく亡くなったからだという早世説や、実は本能寺の変でで信長と共に亡くなったという説まであり、憶測の域を出ていません。

2-3.濃姫に関する有力な史料

その後の濃姫に関する史料として、以下のようなものがあります。

本能寺の変後に安土城の留守居役をしていた蒲生賢秀が、信長の妻妾たちを自らの日野城へ避難させた際、その中に「御台所(みだいどころ)」と呼ばれる人物が記載されており、濃姫その人だという説も有力なのです。

 

御台所君達ヲ退サセ給ハンコソ故将軍ヘノ御忠節ニテ候ヘケント申シカハ賢秀ケニモトヤ思ハレケン左アラハ御台所君達其外女房達ヲ日野ノ谷ヘ退申テ我居城ニコソ籠城ヲハセメトテ子息忠三郎氏郷方ヘ乗物五十丁鞍ヲキ馬百匹傅馬二百疋召連腰越マテ急キ可參由申遣シ明レハ三日卯刻ニソ退レケル

(信長様の正室や側室の方々を無事に避難させることこそ、亡き信長様への忠節だと心得、蒲生賢秀はそれらの女性たちを日野城へと保護し、籠城しようとした。息子の氏郷には乗り物50丁と乗馬100頭、駄馬を200頭準備させ、翌日の早朝に安土を退いていった。)

引用元 「氏郷記」(蒲生賢秀の嫡子、氏郷の事績を記した史料)

2-4.濃姫は江戸時代まで生きていた?

1587年に記された織田家の人々や家臣たちの構成や収入などをまとめた「織田信雄分限帳」には、「安土殿」として600貫文との記載があり、これが濃姫のことだと推測されています。

そして最も決定的なのが、大徳寺総見院(京都にある信長公の菩提寺)にある「泰厳相公縁会名簿(たいがんしょうこうえめいぼ)」の存在なのです。

「慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」と没年が書かれているため、濃姫は1612年まで生きていたのでは?という説も有力になりつつあります。とすると没年は77歳。ずいぶん長生きしたということになるのですね。

3.信長が最も愛したといわれる女性【吉乃】

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嫡男の織田信忠(おだのぶただ)、次男織田信雄(おだのぶかつ)、そして徳川家へ輿入れした徳姫を産んだ吉乃(よしの)は、信長に最も愛された女性だといわれています。彼女の短い生涯は短かったとはいえ、きっと幸福なものだったのではないでしょうか。

3-1.吉乃に惚れ込んだ若き日の信長

1528年生まれで、一般的に「吉乃(きつの)」という名で知られていますが、同時代の史料には「吉乃」という記載は見当たらず、「生駒家宗女」という記載が史料にあるのみです。

彼女の実家生駒家は馬借(運送業者)とも武士ともいわれており、のちに生駒家はが徳島藩藩主となるのですが、当時から織田家との結びつきが強く、尾張では有力な存在だったことが伺い知れます。

当初は尾張の土豪だった土田秀久に嫁いた吉乃でしたが、夫が討ち死にしたため実家へ戻ることになりました。当時まだ24歳の青年武将だった信長は、生駒家へ出入りするうちに後家になった吉乃に魅かれていきます。信長より4歳年上でした。あの信長を惹きつけるほどですから、大変魅力的で美しい女性だったのでしょう。

3-2.信長に愛されつつ短い一生を終える

信長と吉乃が結ばれた当初、信長は足繁く生駒家に通っていたようです。そのため三人の子供(信忠、信雄、徳姫)はいずれも生駒屋敷で生まれていますね。

しかし生来、体が丈夫ではなかったのか、年子(としご)が三人もいると産後の肥立ちが悪く、吉乃はいつしか臥せってしまいました。

1563年、信長は移ったばかりの小牧山城のすぐ近くに屋敷を建て、そこへ吉乃たちを移住させました。ようやく嫡男信忠の生母として迎え入れたのです。しかし喜びもつかの間のことでした。体調が回復しなかったため2年後、この世を去ったのです。

信長の悲しみはいかばかりだったことか。生涯添い遂げると誓った信長は悲しみに暮れました。

生駒家の菩提寺にその時の記録が残されています。

 

信長公勃起し、尾州を平均して城を同州小牧山に築きて本営となし、生駒家宗の女を娶り、二男一女を産めり。所謂、従三位左中将信忠卿、内大臣信雄公及び徳川三郎信康の妻なり。

一日あるひ、信長公の妻、簀を易ふ。小折村の西に荼毘し、新野の地と号す。冥福を龍徳寺に修す。関山末派の僧伊勢より来り龍徳禅刹に寓す、即ち秉炬ひんこして久菴桂昌大禅定尼と号す。二株の嫰桂久昌々の義に俲ひ、名を嫰桂山久昌寺と改む。実に是れ永禄九年丙寅なり。

信長公、常に妻女を哀慕し、小牧城楼に登り、遙かに西方を望み、悲涙数行、歎惜未だ已まずと云ふ。

 

(信長公は尾張を平定して居城を小牧山に築き拠点とした。生駒家宗の娘(吉乃)を娶り、二男一女をもうけた。いわゆる信忠公、徳姫たちのことだ。

ある時吉乃が病を患い亡くなってしまった。小折村の西で荼毘に付し、その土地を新野と名付けた。龍徳寺で菩提を弔い、伊勢から僧がやって来て久菴桂昌大禅定尼という戒名を付けた。そしてその寺は久昌寺と名を改めることになった。

信長公は亡くなった吉乃を想い出し、小牧山城の高矢倉に上ってはるかに西の方角を望んで、悲しみの涙を流し、歎き惜しみ続けたという。)

引用元 「久昌寺縁起」より

 

あの信長が嘆き悲しんだといいますから、本当に吉乃のことを愛していたのでしょうね。

4.我が子と運命を共にした悲しき女性【華屋院】

この時代の女性の特徴として、ちゃんとした名が現在に伝わっていない場合が多いのです。信長三男の生母【華屋院(かおくいん)】もまたそうで、戒名の華屋院、またはその出身から坂氏とも呼ばれています。織田一族の側室らしからぬ彼女の最期は、乱世に生まれた宿命というにはあまりに哀れなものでした。

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明石則実