6.信長のその他の側室たち
「英雄色を好む」といわれますが、信長には多くの側室が存在していました。その他の女性たちはどのような人物だったのでしょうか。
6-1.秀吉の養子となる男子を産んだ【養観院】
養観院(ようかんいん)が信長の側室となったのは1557年前後とされていて、詳しい生没年はわかっていません。またその出自も不明なのです。
彼女は信長の四男於次(のちの羽柴秀勝)と、蒲生氏郷に嫁いだ冬姫を産んでおり、やがて於次は羽柴家の跡を継ぐため養子として出されることになりました。
しかし元服した秀勝が17歳で亡くなると、信長と秀勝の菩提を弔うために出家。京都で余生を過ごすことになったのです。
6-2.前田利長の正室永姫を生んだ母【春誉妙澄大姉】
信長の四女永姫(ながひめ)を生んだ春誉妙澄大姉ですが、戒名のみで生前の名は伝わってはいません。またどのような女性だったのか?どのような出自だったのかも不明なのです。
永姫は加賀百万石の前田利長の正室となっており、加賀藩の記録によれば江戸時代初期に越中(現在の富山県)で亡くなったとされています。
本能寺の変で信長が亡くなったあと、娘を頼って前田家に身を寄せ、永姫の側近くで終生暮らしたのではないでしょうか。
6-3.信長の長男を産んでいた可能性も?【塙直子】
信長の側近だった原田直政(改姓前の苗字は塙)の妹とされていて、嫡男の信忠が生まれるより早く信正という男子を産んでいたという説があります。
尾張の古渡城に移り住んだことが記録に残りますが、その後の消息は不明となっていますね。
6-4.嫡男信忠の乳母だった【慈徳院】
信長の重臣滝川一益の一族だと伝わり、信長の嫡男信忠の乳母を務めていました。やがて信長に見初められて側室となったわけですが、のちに豊臣秀吉の側室となる三の丸殿を産んだそうです。
本能寺の変後は、妙心寺内に大雲院という塔頭を建立し、亡き信忠の菩提を弔いました。
6-5.信長の九男信貞を産んだ【土方氏】
織田氏に父の代から仕えていた土方雄久の娘だとされており、信長の九男信貞を産みました。
信貞はのちに豊臣秀吉の馬廻りとなって1千石を与えられますが、関ヶ原の戦いで西軍に味方したおかげで改易されてしまいます。
信貞自身は亡くなるまで微禄のままでしたが、孫の代になってようやく1千石取りの旗本に復帰し、江戸時代を生き抜いていますね。
6-6.明智光秀の妹だった?【御ツマキの方】
当時の「多聞院日記」によれば、御ツマキの方には「惟任ノ妹」という記述が記述があり、明智光秀の妹だったのではないか?という説があります。
また「ツマキ」は光秀の妻煕子の実家である妻木家を指すため、煕子の近親者だったという解釈もあるのです。
信長の側室だったことに間違いはないのですが、その人物像など不明な点が多いといえるでしょう。
6-7.公家の娘だった【あここの方】
御所に仕える宮女たちが書いていた日記に「御湯殿上日記」というものがあり、そこに登場するのが「あここの方」です。
父親は内大臣を務めた三条西実枝という公家で、1577年に信長の推挙で大納言に昇進していますから、娘を側室として差し出したなど、何か深い関係があったのかも知れません。
歴史に埋もれた女性たちを偲ぶ
女性の人権がまだ確立されていなかった時代、名前や事績すら伝わらず歴史の中に埋もれていった女性たちがほとんどだったことでしょう。今回ご紹介させて頂いた織田信長の妻たちも含め、彼女たちの生きた証はほとんど無きに等しいものだったのです。しかし、信長の菩提寺である大徳寺塔頭総見院には時期によって特別公開があり、信長の妻だった濃姫、お鍋の方などの墓碑も見ることが可能。そんな彼女たちを偲んで、逢いに行かれるのもいいですよね。
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