幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

幕末の勇将にして自由民権運動の旗手「板垣退助」の生涯をわかりやすく解説

国会期成同盟の結成と自由民権運動の発展

退助が参議を辞職したのち、民権運動は更なる盛り上がりを見せます。1877年、片岡健吉らは西南戦争中に国会開設を求める立志社建白を政府に提出しますが、政府に却下されました。

1878年、大阪会議で退助が参議復帰したことによって自然消滅していた愛国社の再興大会が開かれました。愛国社の活動には士族だけではなく、豪農や府県会議員なども参加します。そして、1880年、愛国社第四回大会で国会期成同盟の結成を決議しました。

国会期成同盟は、太政官・元老院に対して、国会を早期に開くよう求める請願書を提出しますが、政府は相変わらず却下します。事態が動くのは1881年、開拓使官有物払下げ事件の勃発です。世論の反発を前に、政府は参議大隈重信を罷免。さらに、10年後の国会開設を約束しました。武力ではなく、言論で政府に改革を迫った自由民権運動は一定の成果を上げることができたのです。

命がけで自由民権運動を盛り上げる板垣退助

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念願の国会開設を前に、退助は自由党を結成するなど国会開設後を見据えた動きを始めます。そんな矢先、退助はテロに遭遇し大けがを負いました。ケガにもめげず活動を続ける退助ですが、自由党員の暴走により危機に立たされます。憲法発布後、退助は時に政府と対立し、時に閣僚として政権に参加するなど、政治の第一線に立ち続けました。

自由党の結成と板垣退助襲撃事件

1881年、国会開設の詔が発布されたことを受け、退助らは自由党を結党します。自由党の初代総裁は板垣退助、ほかに後藤象二郎、片岡健吉、河野広中、星亨などが参加しました。自由党の基本理念はフランス流の急進的な自由主義。自由党は士族や地主・自作農などを支持基盤とする政党で、主権在民や普通選挙の実施を求めました。

自由党総裁となった退助は、人々に自由民権の考え方などを説くため、各地で演説会を開催し、人々と対話を重ねます。1882年4月6日、この日は岐阜県富茂登村での演説会。演説会ががおわったのは、午後6時ころでした。退助が会場を後にしようとしたその時、刃渡り9寸(約27センチ)の短刀を持った男が退助に襲い掛かります。騒ぎに気付いた周囲の人が犯人を取り押さえましたが、退助は7か所も刺されてしまいました。

幸い、命の別状はありませんでした。「板垣死すとも、自由は死せず」と板垣が叫んだかどうかは定かではありませんが、退助を刺した短刀は現存しており、高知市立自由民権記念館に展示されています。

自由党過激派による激化事件をうけ、退助は自由党解党を決断

退助らの活躍で民権運動は大いに盛り上がりますが、政府が行った財政政策、いわゆる松方デフレの影響で農民たちが経済的に打撃を受けると、運動は分裂。中には、過激な事件を引き起こすものも現れました。

1882年の福島事件を皮切りに、1883年に高田事件、1884年には加波山事件と各地で自由党員が過激な事件を引き起こしました。これらの事件をまとめて、激化事件といいます。

自由党は地方の過激派を抑えようと、総理である退助の権限を強化し団結しようとしますが、うまくいきません。地方の過激派を抑えきれなくなったと判断した退助は、1884年10月29日、自由党を解党してしまいました。

それでも収まりがつかなかった埼玉県秩父地方の自由党員らは、地元の農民と困民党を結成し、政府に租税の減免などを要求し武装蜂起。高利貸や役所を襲撃したため、政府は軍隊を動員して鎮圧。これを秩父事件といいます。自由民権運動はこれらの激化事件により、下火になってしまいました。

憲法制定後の退助

激化事件で自由党が力を失っても退助はあきらめませんでした。大日本帝国憲法の制定直前、退助は河野広中、大井憲太郎らとともに立憲自由党を再興します。退助自身は伯爵に叙せられていたため、衆議院議員になることはありませんでしたが、立憲自由党は第一回衆議院議員総選挙で大躍進。130議席を獲得し、帝国議会第一党となります。

立憲自由党はまもなく、自由党と改称。山県有朋、松方正義、伊藤博文らの内閣と対峙しました。自由党などの民党は政費節減・民力休養を訴え、政府が勝手に増税したりできないよう民衆の立場に立って抵抗を続けます。

自由党は民撰議院設立建白書のころから主張する、有司専制への反対を貫きました。その後、立憲改進党の大隈重信と提携し、日本初の政党内閣である第一次大隈内閣の成立に協力します。その後、1900年の立憲政友会の成立とともに、退助は政界を引退しました。

板垣死すとも、板垣家は華族とせず

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1887年、退助は伯爵に叙せられましたが、本来は伯爵の位を受け取るつもりがありませんでした。ただ、三度も伯爵位を拒否するのは天皇に対し非礼だとして受けたといいます。彼は死ぬ間際、嫡男を廃嫡して家督相続を意図的に遅らせました。これにより、板垣伯爵家は退助一代で終わりました。退助は、家族になることで民衆と異なる立場になるのが嫌だったのかもしれません。民衆とともに生きた民権政治家らしい最期ですね。

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