西郷が最も薫陶を受けた人物【島津斉彬】
西郷の人間形成や生き方などに最も大きな影響を与えた人物だと言われる島津斉彬。先見の明があり、蘭癖(西洋かぶれ)とも言われた主君でしたが、西郷にとってはまさに「師」であったはず。そんな島津斉彬の人物像を見ていきましょう。
いくつになっても藩主になれない世継ぎ
【薩摩藩主】島津斉興の長男として江戸で生まれ、子供の頃から聡明であったと言われていますが、曾祖父(島津重豪)の影響からか蘭学(洋学)に傾倒し、成長するに従って次第に諸外国の事情に通じるようになり、大名たちの間でもその先見の明は一目を置かれていました。
しかし、父の斉興はそんな斉彬を快く思わず、蘭学かぶれの末に藩財政を傾かせた重豪の姿と重ね合わせ、いつまで経っても隠居もせず、斉彬に家督を譲ろうとさえしませんでした。実は側室お由羅の方が生んだ久光に継がせたかったという思惑があったからなのです。斉彬を慕う地元鹿児島の藩士たちは将来を憂い、一部の者が暴走してお由羅の方や反斉彬派の重臣たちの暗殺を謀りますが、事前に露見して失敗。逆に斉彬派に対して粛清の嵐が吹き荒れることになったのです。
しかし斉彬はここで巻き返しを図ります。当時、薩摩藩と琉球(沖縄)は貿易関係にありましたが、幕府に申告するよりも大々的に行っており、その事実を幕府に告発したのでした。その責を負って斉興は隠居。反斉彬派も一掃された上で、晴れて斉彬が藩主の座に就くことになりました。
斉彬と西郷の出会い
藩主となった斉彬は、さっそく藩政改革に取り組みます。島津家の別邸「仙厳園」の広大な敷地を利用し、製鉄や兵器製造などの拠点とした集成館事業や農作物の品種改良、そして新たな人材の発掘などでした。
藩政に対する意見書が広く求められたのもこの頃で、その中で西郷の積極的な意見書が斉彬の目に留まることに。これを機に西郷は斉彬の指示で江戸同行を命じられたのでした。そして江戸での西郷の役目は「庭方役」。単に庭の管理をするだけではなく、身分の低い藩士に対して庭で気兼ねなく話をするために、あえてその役を命じたのです。
斉彬の狙いは西郷を有能であると見込み、各藩の著名な人物と交流させて情報収集を行い、流れを幕政改革の方向へ持っていこうとする思惑がありました。その役目を大いに果たした西郷は、斉彬の無二の寵臣となっていくのです。
島津斉彬の死
当時の日本は欧米各国からの圧力に屈し、言われるがままに開国を行った幕府に対しての不満が鬱積していました。そこで斉彬は有力諸藩と連携して強きリーダーだと目されていた一橋慶喜(のちの15代将軍)を将軍に就任させるために奔走します。当然、西郷も各藩の間を飛び回って将軍継嗣問題に関わることとなりました。篤姫が将軍家に嫁いだのもこの頃ですね。
しかし、将軍に徳川紀州家を推す勢力の筆頭だった井伊直弼が大老に就任するや風向きが変わることに。独断で紀州家の徳川慶福を将軍に内定させ、朝廷の勅許を得ることすらなく日米修好通商条約を結んだのです。更に不満を訴える者たちを実力で黙らせるために弾圧を加えたのでした。これが世にいう安政の大獄と呼ばれる事件なのですね。
しかし斉彬はあきらめません。最後の手段として島津家の兵を率いて京へ上り、朝廷に直接直訴する方法に訴えようとしました。西郷も東奔西走し、各藩に斉彬出馬の意向を伝えて上洛準備に取り掛かっていました。しかしそんな矢先に斉彬が突然倒れます。志半ばで師を失った西郷の無念はいかばかりだったでしょうか。
しかし、斉彬の遺志は西郷に受け継がれていきます。日本を外国に負けない強い国とし、日本をまとめること。そんな斉彬の強い思いを受けた西郷だからこそ明治維新が実現したのかも知れませんね。
西郷の盟友であり最大のライバル【大久保利通】
西郷隆盛が語られるうえで絶対に外せないのが、やはり大久保利通の存在でしょうね。西郷のように目立たず日陰のような存在だったのかも知れませんが、彼の才能は明治維新~彼の死までのわずか10年間で大いに発揮されました。
西郷と大久保~薩摩藩時代~
大久保は西郷と同じく鹿児島城下に生まれ、下級武士の家柄でありながらも幼い頃から西郷たち郷中(薩摩藩の教育組織)の子供たちと切磋琢磨して育っていきました。しかし、先述した島津家を揺るがしたお由羅騒動に巻き込まれて父は謹慎処分に、大久保自身も職を失ってしまいます。
しかし、斉彬が藩主に就いたことで事態は好転し、西郷と共にめきめきと出世していくことに。さらに斉彬死後には、国父となった久光の寵臣として深く藩政に関わり頭角を現しました。安政の大獄の影響で西郷が奄美大島へ隠れ住むことを余儀なくされた時には、久光に頼み込んで西郷を鹿児島へ召喚させるほどでしたから、親友であると同時に実力を認め合う盟友同士であったということでしょう。
西郷と並んで薩摩藩無二の存在となった大久保。薩長同盟の際にも先頭に立って尽力し、討幕へと舵を切っていきます。そして日本は明治維新を迎えたのでした。
西郷と大久保~明治時代~
徳川幕府が倒れ、戊辰戦争を経て日本が近代化の道へと歩みだすと大久保の手腕がいよいよ発揮されることに。実質的に国家のリーダーとなった大久保は、西郷と共に版籍奉還や廃藩置県などを次々と断行。富国強兵や産業奨励に邁進します。しかし、大久保のひたすら自分の信じた道を突き進むというやり方は、強引なものと捉えられ軋轢を生むことも少なくなかったようですね。西郷とも征韓論を巡って対立し、ついに西郷たちは下野。鹿児島へ帰ってしまうことに。
その頃、重税に苦しむ庶民や武士特権を剥奪された士族たちがこぞって不満を訴え、不穏な世情となっていました。実際にも佐賀の乱などの武力紛争も起こり、大久保自らが政府軍を指揮して戦っています。しかし、偶発的な事件をきっかけに西南戦争が勃発したことで、盟友であったはずの西郷とも戦わねばならなかった大久保。その心情はいかばかりだったことでしょう。
西南戦争を最後として日本の内乱は終息を迎えますが、大久保は日本の更なる発展を見ることなく、この世を去ります。紀尾井坂の変で暗殺されてしまったのでした。彼は最後まで私利私欲なく仕事に邁進し、私財を投じてまでも国のために尽くした人でした。さて、今の日本でそんな政治家は果たしているでしょうか。
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