日本の歴史

TAKARAZUKA_REVUE!~宝塚歌劇団100年の歴史と時代を彩ったトップスターたち~

実は筆者、つい3ヶ月ほど前に初めて宝塚歌劇を鑑賞しまして。宙組公演の「オーシャンズ11」でしたが、それはそれはもう魅了されっぱなしでした。ダンスや歌の上手さもさることながら、情熱的な演技と立ち居振る舞いの見事さに圧倒されたのは言うまでもなく、「輝かしいステージ」というのは、まさにこういうことなんだなと、実感してきました。宝塚歌劇団は100年もの歴史を誇る劇団ですから、過去の歴史を振り返れば良い時代も不遇の時代もあったはず。そして時代を彩ったトップスターや劇団員の皆さんの活躍があったからこそ、広く受け入れられる演劇として長くやってこれたのでしょうね。今回は、そんな宝塚歌劇団の歴史を黎明期から紐解き、その時々のトップスターをご紹介しつつ、宝塚歌劇の魅力をご紹介したいと思います。

~黎明期~小林一三のアイデアからスタートした宝塚歌劇団

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箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の創始者だった小林一三(こばやしいちぞう)は、まさに天才ともいえるアイデアマンでした。はるか昔の大正時代に、素晴らしいライフスタイルを人々に提案し、それを実行し、ニュータウンを造成して「電車で通勤」という現在では当たり前のことを習慣として根付かせた人でもあったのです。そんな彼が演劇の素晴らしさを世に広めようと考えたのも、その頃のことでした。

不振事業の中から出発した宝塚歌劇団

大阪梅田~豊中~池田~宝塚を結ぶ阪急宝塚線沿線は、大正時代に小林一三の手によってベッドタウン化されていました。さらに終着駅である宝塚は温泉地などを抱えるため、当時から有馬温泉と並ぶ大阪の奥座敷だったのです。

小林は、公共浴場や遊園地、動物園などを併設した宝塚新温泉を開業。その目玉として「パラダイス」という室内プールを開業したのもこの頃でした。ところが、パラダイスは室内プールとはいえ温水設備がなかったために夏場しか使えず、男女共泳が憚られた時代だったこともあり、早々に閉鎖に追い込まれることに。

そこで考えたアイデアマン小林。いっそのことプールを劇場にしてしまおうと考え付きました。広いプールにフタをして、そこを観客席に。さらに一段高い脱衣場をステージに見立てたのです。

1914年4月、宝塚少女歌劇養成会と名付けられたわずか17名の少女たちが挑んだ初舞台が、桃太郎を題材とした「ドンブラコ」、そして「浮れ達磨」、ダンス演目の「胡蝶」でした。この公演は好評をおさめ、順風満帆なスタートを切ったのです。

日本初のレビュー上演。時代を先取る宝塚歌劇が広まる

1918年には帝国劇場にて初の東京公演が開催され、それまで歌劇や西洋演劇を見たことがない人々に衝撃を与えました。ほぼ時を同じくして雑誌「歌劇」が創刊され、当時は20銭。1921年からは月刊誌になりました。

1923年にパラダイス劇場は火災によって消失しますが、翌年にはさっそく4千人を収容することのできる初代宝塚大劇場がオープンしたのです。すでに宝塚少女歌劇団と名称を変更していましたが、劇場の完成に伴って新たに雪組が誕生。「月、花、雪」各組が1ヶ月交代で年12回の常時公演を行うというスタイルが確立したのがこの時代でした。

当時、パリを中心に西欧で大流行していた舞台芸術を取り入れ、独自に上演していたことは、従来の日本文化に西欧の息吹を持ち込んだ斬新な試みだったといえるでしょう。1927年に上演されたレビュー「モン・パリ」は、その主題歌が流行歌として日本中で話題になりました。まさにレビュー全盛の時代を築き上げたのです。

宝塚歌劇を彩ったトップスターたち♯1【小夜福子】

大正時代に入団し、昭和初期のレビュー黄金時代を彩った「月組」の男役スターでした。

貴公子のような男装の麗人として、宝塚歌劇の歴史の中で輝きを放ち、宝塚退団後も映画、舞台に幅広く活躍しました。

現在、宝塚歌劇終演後に流れる「さよなら皆様」の提唱者でもありますね。

~戦前・戦間期~近づいてくる戦争の足音

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レビュー全盛時代を築き、日本を代表する文化の一つとして認められた宝塚歌劇。しかし、華やかな存在の彼女たちにも暗い戦争の足音は近づいていたのです。それでも彼女たちは、自分たちができる精一杯の演技で、ファンたちへ夢を送り続けたのでした。

日本を飛び出して世界で活躍するタカラヅカ!

1934年、東京宝塚劇場がオープン。それに伴って星組が誕生しました。初演は月組による「寶三番叟」「巴里のアパッシュ」など。宝塚大劇場に勝るとも劣らない3階席まである劇場で、まさに東京での拠点としてふさわしい場所でした。

そして1938年、宝塚歌劇団として初の海外公演が行われました。「日独伊親善芸術使節団」として船で一ヶ月もかけ、ドイツ、ポーランド、イタリアなど26か所で35公演というハードスケジュールをこなします。

帰国するやいなや、今度は「日米親善芸術振袖使節団」としてアメリカ公演を行いました。ヨーロッパだけでなく、アメリカでも大好評を得た宝塚少女歌劇団の海外公演は、まさに大成功を収めたものでした。

しかし、世界恐慌から続く世界の時勢は戦争へと向かいつつあり、華やかなりし時代に暗い影を落としていたのです。

戦争によってレビューが消えたタカラヅカ

1937年から始まった日中戦争は、宝塚少女歌劇にも少なからず影響を与えていました。時局を考慮して雑誌「歌劇」「宝塚グラフ」が相次いで休刊し、上演される内容にも華やかなものは見られなくなりました。レビューが禁止され、代わりに「軍国もの」などの戦意を高揚させるための演目が強制されました。

それとともに多くの生徒たちの退団も相次ぎ、残った生徒も唱舞奉仕隊大日本国防婦人会宝塚少女歌劇団分会を結成して、各地の工場や病院をはじめ、遠く大陸の戦地にまで慰問に回ったそうです。

太平洋戦争中の1943年、ついに宝塚大劇場東京宝塚劇場は閉鎖に追い込まれました。東京宝塚劇場にいたっては、この後10年以上も閉鎖されることになるのです。公演打ち切りを発表した直後、惜しんだファンらが駅から劇場まで長蛇の列を作ったそうですね。

宝塚大劇場は海軍予科練の宿舎となり、東京宝塚劇場は風船爆弾の製造工場となりました。やがて1945年8月の終戦の日を迎えるのです。

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明石則実