教養歴史

厳格な身分制度が明治維新を動かした?「土佐藩」の階級制度を考える

幕末の尊王攘夷運動や幕府を倒した明治維新など、激動の時代の中で多くの人物が活躍しました。やはりそれは武士が多かったのですが、決して身分が高い者ばかりではありませんでした。どちらかといえば下級武士とされている者ほど歴史上に名が残されています。考えてみれば、そこに至るまでの日本史の中で名前が挙がるとすれば、天皇や公家、大名や武将、大商人や芸術家などの著名人ばかり。下級武士などは名前すら出てきません。しかし、幕末になるやいなや一挙に下級武士たちが大活躍することになるのです。それはなぜだったのでしょうか?大名や家老や正式な藩士でない【下級武士】が大活躍できた理由を土佐藩の事例を交えながら探っていきましょう。

徳川幕府が重要視した身分制度の確立

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1603年、徳川家康が征夷大将軍となって開かれた徳川幕府。実質的に戦国時代を終わらせるたわけですが、、それと同時に、二度と戦乱の時代が来ぬよう周到な計画をもって成立した政権であったともいえるでしょう。

厳格な身分制度をもって反乱の芽を摘むこと

江戸時代以前にも、たしかに身分制度というものは存在していましたが、非常に曖昧なもので、農民身分の者が武士となったり、民衆レベルで一揆を起こして支配者に挑戦するなど、身分というものは決して越えられない壁ではなかったのです。豊臣秀吉の出世などが良い例ですよね。

そこで徳川幕府は、全体的には「士農工商」という身分制度を構え、それぞれの身分の中で自分の為すべきことを為すよう制度化しました。武士の次の身分が農民となっているのも、いくら生活が苦しくても不満を持たせないようにするため。「商人や職人たちよりも、お前たちのほうが偉いんだぞ!」という概念を持たせるという巧妙な制度だったのです。

そのため、たしかに江戸時代には百姓一揆が頻繁に起こっているのですが、それは農民の反乱などではなく、ゼネストのような労働争議の一種だったともいえます。

もちろん生まれてから死ぬまで、同じ身分の中で生きなければならないことが鉄則とされたため、江戸時代以前には越えられた身分の壁も、幕府の身分政策によって越えられない高い壁となったのです。

厳格な身分制度を正当化するための学問【朱子学】

徳川幕府は、この厳格な身分制度を政策のみならず、学問における根拠や裏付けとしても用いました。それが朱子学だったのです。

幕府に重用された儒学者の林羅山は、「上下定分の理」を打ち出し、「天は上にあり、地は下にある。すなわち上下関係が発生するのは自然の摂理である」と唱えました。たしかに秩序のある社会を形成するには上下関係は欠かせぬものであり、なおかつ身分制度を正当化できる大義名分とすることができるのであれば、これだけうってつけのものはありません。幕府が飛びついたのも無理からぬことだったでしょう。

この考え方は、武士の世界にも当然のように受け入れられ、武士の中にも厳格な身分制度は出来上がっていきます。「上の身分の者が絶対である」「主君のために家臣が命を投げ出すのは当然のこと」といった忠節こそが美徳だと捉えられました。禄をもらい、上下関係に縛られる武士たちは徐々にサラリーマン化していったのでした。

ゆくゆくはこの考え方こそが、「謙虚さ」「礼儀正しさ」といった日本独特の美徳観となるのですが、江戸時代の頃には、ひたすら身分制度の維持のために使われた学問だったということはいえるでしょう。

土佐藩における武士階級【上士と下士】

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全国の諸藩の中で、もっとも藩士の身分階級の差が激しかったのは、実は土佐藩(現在の高知県)でした。坂本龍馬武市半平太、岩崎弥太郎などの人物を輩出した地だったのですが、そこではどのような階級制度があったのでしょうか。

土佐という土地柄と山内家の支配

土佐国は、四国をまたぐように横たわる四国山地の南側にあり、古来より交通の便も悪く、僻地だとされてきました。戦国時代には長宗我部氏が土佐を統一し、そこにいた在地の武士たちも長曾我部氏の家臣となっていたのです。

しかし、長宗我部盛親が関ヶ原の戦いで敗れ、土佐を取り上げられると、後釜として山内氏が乗り込んできました。長宗我部を慕う旧臣たちは、新しくやってきた領主になかなか従おうとせず、各所で反乱や小競り合いを繰り返すように。

業を煮やした山内一豊は、そんな長宗我部旧臣たちを快く思わず、新規の家臣を上方で採用したり、不穏な動きをする者を取り締まったりしました。しかし、元々が小大名だった山内氏にとってはやはり家臣の絶対数が足りず、長宗我部旧臣たちの大量雇用に踏み切ったのです。

ここに山内氏直臣と長宗我部旧臣のコラボという不思議な関係が出来上がったのですね。

上士下士制度を巧みに利用する土佐藩

しかし、山内氏直臣と長宗我部旧臣との間には厳然たる格差がありました。「上士」「下士」という区分けがなされ、上士は藩の重要なポストを独占し、下士はあくまでその配下に過ぎず、出世できたとしても下級役人が関の山でした。下士の中でも功績があった家は白札といって、上士格待遇を与えられる場合もありましたが、ほとんどが生まれた出自だけで差別され、虐げられたのです。

土佐藩は、この制度をうまく利用し、下士に軍事要員としての役目を与えるいっぽう、新田開発をさせて藩の収入を増やすことに熱心となります。表向きは武士として帯刀しているものの、実際の暮らし向きは農民とほとんど変わりはありませんでした。

しかし、江戸時代中期ともなると農村部にまで貨幣経済が浸透し、下士たちの暮らしはどんどん苦しくなっていきます。中には貧窮のために武士身分を金銭で売ってしまう者もおり、地下浪人と呼ばれて蔑まれる存在となったのです。後に三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎の家も地下浪人でした。

逆に商人の身分で、武士身分を金銭で買った者もおり、坂本龍馬の実家がそれに当たります。

上士は、下駄の使用が許されていました。しかし下士は雨の日でも草履以外は認められませんでした。

下士は、絹織物の着物を着ることは許されていませんでした。(綿の着物のみ)

上士と下士が道ですれ違う時、下士は必ず上士に道を譲らねばならず、必ず頭を下げねばなりませんでした。

下士が上士に無礼を働いた場合、切り捨てても良いことになっていました。

上士の家と、下士の家同士での結婚は許されていませんでした。

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明石則実