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幕末の勇将にして自由民権運動の旗手「板垣退助」の生涯をわかりやすく解説

明治六年の政変で下野した退助は、自由民権運動の旗手となった

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戊辰戦争で大活躍した板垣退助は、藩では家老格になり、明治政府から賞典禄も与えられ土佐藩を代表する人物となりました。政府高官となった退助ですが、明治六年の政変で下野。以後は、自由民家運動の活動家となります。退助は政府に国会を作るよう働きかけるなど、積極的に活動しますが、テロの標的となってしまい暗殺されそうになりました。明治時代の板垣退助についてまとめます。

明治六年の政変で下野し、土佐に帰郷した退助の動き

戊辰戦争で功績をあげた退助は明治政府の要職である参議の地位につきました。明治初期に政府が直面した問題の一つが対朝鮮外交です。新政府成立後、何度か朝鮮に使節を送りましたが、攘夷の立場をとっていた朝鮮は日本との外交を拒否。退助らは朝鮮に開国を求め、拒否した場合は武力で開国させるべきだとする征韓論を主張しました。

しかし、外遊から帰国した岩倉具視大久保利通木戸孝允らの反対により征韓論は実現できません。退助や西郷隆盛、江藤新平らは政府高官の職を辞して帰郷しました。これを明治六年の政変といいます。西郷や江藤らはその後、士族反乱の中核となりますが、退助は全く別の道を選びました。

民撰(民選)議院設立建白書を提出し、政府に国会開設を迫る

征韓論後に下野した退助は、1874年、後藤象二郎らとともに最初の政治結社である愛国公党を結成しました。愛国公党は、人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利を持つとする天賦人権論の立場に立ちます。

同年、退助は後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、由利公正らとともに民撰議院設立建白書を政府に提出しました。建白書で退助らは、天皇も人民も政治の権力を持っておらず、一握りの官僚が政治を独占している(有司専制)と批判。国民が政府の失政や苦しみを訴える場もないとも主張しました。そのうえで、官民一体となって国を立て直すため、速やかに国民の代表からなる「民撰議院」を設立するべきだとしたのです。

民撰議院設立の動きは、政治に参加できない「有司以外」の士族たちの主張でしたが、次第に国民全体に広がりを見せました。また、退助は地元の土佐に立志社を設立。さらに、1875年には大阪で愛国社を結成し自由民権の実現を目指しました。

大阪会議で政府と妥協するも短期間で決裂

影響力の大きい退助の動きに、政府は対応を迫られました。一時、政界を退いていた井上馨や政府要人となっていた伊藤博文の仲介により大阪で大久保利通、木戸孝允、板垣退助の三者による大阪会議が実現します。

この会議で、木戸・板垣が参議として政府に復帰することが決定しました。退助らの参議復帰後、漸次立憲政体樹立の詔が発布されます。その内容は、元老院・大審院・地方官会議を設置し、徐々に立憲政体に移行させるというものでした。

しかし、三者の思惑は微妙に異なっていたことから、協力関係は長続きせず、大阪会議の体制は半年で崩壊。退助は参議の職を再び辞して自由民権運動に回帰します。とはいえ、立憲政治への道筋をつけたことは大きな成果であったといえるでしょう。

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