4代将軍・藤原頼経
4代将軍として迎えられたのは、源頼朝の同じ母から生まれた妹・坊門姫の孫を両親にもつ「藤原頼経」でした。摂家から迎えられた初代摂家将軍ですね。九条頼経とも呼ばれています。当時2歳の頼経が鎌倉に迎えられてから数年間は北条政子が尼将軍として将軍の代行をしました。
承久3年(1221年)に、「承久の乱」という後鳥羽上皇が執権の北条義時に対して討伐の兵をあげます。天皇の血をひく源氏の将軍が滅亡し北条氏が政治をとるということから、朝廷全体から不満・反感の声が上がったためですね。この時に朝廷側に心変わりしそうになっている御家人たちに、北条政子が「鎌倉殿(源頼朝)からの恩を忘れたか!また朝廷の犬になってもいいのか!」という檄をうけて、幕府は一丸となって朝廷軍を破りました。
傀儡の将軍ではあるものの、青年に成長してくると、北条氏の中でも嫡流でないため執権になれない者や、反北条氏の御家人が自然と集まってきました。幕府の政治に次第に口を出すようになった藤原頼経と4代執権の「北条経時」との関係が悪化して、寛元2年(1244)に将軍職を解任されて、嫡男の頼嗣に譲らされてしまいます。しばらくは鎌倉にいましたが、それでも寄ってくる反勢力の中心である「北条(名越)光時」の反乱未遂という「宮騒動」があり、5代執権・北条時頼により寛元4年(1246年)に京都に送還されてしまったのでした。
5代将軍・藤原頼嗣
「藤原頼嗣」は寛元2年(1244)父・藤原頼経の譲りによりわずか6歳で将軍に就任しました。寛元4年(1246)7月「宮騒動」により父頼経が京都へ追放され、宝治元年(1247)6月の三浦氏たちが将軍を担いで北条氏を倒そうとした「宝治合戦」が起きて三浦氏が滅亡しても、藤原頼嗣は将軍として頑張って鎌倉に留まりました。しかし建長3年(1251)了行法師らの謀叛事件に、またもや父の藤原頼経が関係したことから、14歳で将軍職を解任されて京都へ追放されてしまったのです。
父親の藤原頼経とは反目していたとはいえ、5代執権の北条時頼は藤原頼嗣を立派な将軍に育て上げようと、当代一流の者を集めて学問・武芸・帝王学を学ばせて、そのまわりにも学問が好きで熱心な者を集めていたことが『吾妻鏡』に載っていますね。さすが名君と呼ばれた北条時頼です。
宮将軍誕生
北条氏はあい続く4代将軍・藤原頼経の暗躍のために、摂家将軍を諦めなければならなくなりました。これで公家とはいえ、初代将軍・源頼朝の血を受け継いだ鎌倉将軍は完全に終わってしまったのですね。そして当初の希望通りの皇室より将軍を迎えることができたのです。
6代将軍・宗尊親王
この「宗尊親王」は後嵯峨天皇の事実上の長子で寵愛を受けながらも、母親の身分が低いために皇位継承は絶望的であり、後嵯峨天皇は行く末を心から心配していました。そこへ藤原頼経でこりて九条家を鎌倉幕府の政界から排除したくてたまらない北条時頼の申し出に、お互いの思惑が一致したために「宮将軍」「皇族将軍」の誕生となったのですね。
宗尊親王は政治に発言権がないことで和歌に情熱をそそぎ、歌会を何度も開いて鎌倉幕府御家人たちに一大和歌ブームがおこりました。中でも後藤基政・島津忠景ら御家人出身の才能ある歌人が生まれて、京都で選集された『続古今集』にも選ばれます。
その人気があった宗尊親王ですが、25歳となった文永3年(1266年)に正室の近衛宰子と僧・良基の密通事件というスキャンダルから謀反を疑われて将軍職解任と京都へ追放となってしまいました。すると和歌同好の御家人達が抗議に集まって武装するなど反対行動をして、当時連署だった北条時宗から怒られてますね。大河ドラマ『北条時宗』ではトリッキーな人物として描かれていましたが、みんなに愛されていたようです。
7代将軍・惟康親王
宗尊親王の解任後、息子の3歳だった「惟康親王」が征夷大将軍に就任しました。就任したのちに臣籍降下して源姓を賜与され、源惟康と名乗ります。これは国難の「蒙古大襲来」があったために、8代執権・北条時宗が、惟康親王を源頼朝に、自分を北条義時になぞらえて、鎌倉幕府の原点に帰って国難に向っていこうという意志がありました。北条時宗は源氏将軍家というものにあこがれていたのですね。
弘安7年(1284)に時宗が死去すると、その側近だった平左衛門尉頼綱が政権を取り、鎌倉幕府からと皇籍復帰を申し出て惟康親王となります。しかし成人となった惟康親王が26歳となった正応2年(1289)9月に将軍職を解任して京都に戻されました。悪天候の中で酷い扱いの駕籠に乗せられて住んでた御所は壊されるなど『とはずがたり』に記されていますね。後に出家して享年63歳。将軍になった人の中では長命ですね。
8代将軍・久明親王
「久明親王」は第89代「後深草天皇」の第六皇子。正応2年(1289)9月、従兄の惟康親王が京に帰されたことで、征夷大将軍に就任。幕府の執権は9代目の北条貞時。正室は前将軍の惟康親王の娘です。
久明親王は和歌にたけていて、宗尊親王以来続いていた鎌倉幕府の和歌歌壇の中心となります。北条貞時も和歌が好きで和歌友だったようですね。例によって北条氏から延慶元年(1308)8月に将軍職を解任されていますが、京都に戻っても良い関係が続き、嘉暦3年(1328)に亡くなった時には幕府は50日間執務を停止して、翌年には百箇日法要を鎌倉で行っていますよ。一番幸せな将軍だったのかもしれませんね。