日本の歴史鎌倉時代

【鎌倉時代】鎌倉幕府が倒れるまで鎌倉将軍は存在していた!

鎌倉幕府の産みの苦しみ

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さて、鎌倉幕府はいつ開かれたのでしょう。私達の時代は「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」と覚えたものですが、近頃は、治承4 年(1180) 年の 伊豆で挙兵した年・寿永2 年(1183) 年東国行政公権を認められ、 政治機関である公文所・問注所を設置した年・文治元年 (1185) の 守護,地頭が設置された年・建久元年(1190)右近衛大将に任命された年・建久3 年(1192) 年に征夷大将軍に任命された年など色々といわれていますね。

建久3年(1192)3月に後白河法皇が崩御して、7月12日後鳥羽天皇によって源頼朝は征夷大将軍に任ぜられました。正二位で就いたことによって、軍事・軍権をもつ武家政権となり江戸幕府までの以降700年近く続く慣例ができたのでした。

幕府の体制は、将軍と御家人との直接的な関係で、それによって土地の安堵や戦功による恩賞と、軍事などによるご奉公という固い繋がりがありました。細かい体制は年によって変わっていったのですね。守護地頭などは家系による就任がほとんどでしたよ。

幕府の礎を作るために腐心した源頼朝は、建久10年(1199)1月11日に出家して、1月13日に死去しました。享年53。死因は落馬といわれています。

北条氏と御家人たちの確執

そもそも北条氏は桓武天皇の流れをくむ平氏の一族でした。たまたま流罪になってやってきた源頼朝と北条時政の娘の北条政子が結婚したことから、北条氏の運命が大逆転します。最初の旗揚げの時も本心は「マジ?」ってなったかもしれませんが、腹を据えて参加したのでしょう。

しかし豪傑武将という噂だけで官位もなく、荘園の在庁官人でもなく、旗揚げの時の兵力もそれほどでもない中堅クラスだといえます。平氏を倒すまでは一丸となって働けますが幕府としてシステムが成立すると、どうしても大豪族の中で見劣りしたことでしょう。しかし、彼の強みは源頼朝の舅としての立場。それをフルに使い、世継ぎの頼家と実朝がいたことは外戚であることと軍事交通の要が領地だと言うことでした。世渡りが上手だということから朝廷になにかパイプがあったのではないかという話もあります。そして「執権」というポストを得たのですね。

鎌倉幕府と源氏将軍

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源頼朝が亡くなって、源頼家が2代将軍となります。源頼朝が独裁政権だったために、源頼家の独裁を押さえるために御家人たちは「十三人の合議制」というものを作りました。その中心として名を連ねたのが、北条時政と息子の北条義時だったのですね。これは幕府の行政・司法・立法のすべてを合議で決めるというものでした。後に評定衆といわれるものになりますね。

2代将軍・源頼家大騒動が起きる

「源頼家」寿永元年(1182)8月12日、鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれました。建久10年(1199)に源頼朝の死によって18歳で源頼家は将軍になります。

乳母の有力御家人の比企氏一族を後ろ盾に、北条氏をはじめとした御家人を無視して勝手気ままな政治をはじめたのですね。そこで御家人たちは「十三人の合議制」を作るのですが、その3年後に重病となり、北条氏が推す源実朝と対立となり、北条氏の襲撃で比企氏は滅亡してしまいました。そのため将軍職を剥奪されて、伊豆国修禅寺に幽閉後、暗殺されてしまいます。それによって北条氏は御家人トップになったのでした。

悲劇の3代将軍・源実朝

「源実朝」建久3年(1192年)8月9日に鎌倉で生まれました。乳母は母の北条政子の妹でしたので、まるまる北条っ子だったのですね。建仁3年(1203)9月、兄の頼家は将軍職を失い伊豆国へ。北条氏は朝廷に頼家が死去したと嘘の報告をし、朝廷は7日に千幡を従五位下征夷大将軍に任命します。

元久2年(1205)「牧氏事件」という、北条時政の後妻の牧の方が、源実朝を殺して源頼朝の他の女性との子供を将軍にしようとするとんでもない事件を起こしました。北条政子はすぐに源実朝を弟の北条義時の館に避難させて、父と牧の方を追放しました。これで北条義時が2代目執権となったのですよ。

執権となった北条義時は、古参の北条氏と意見を異とする有力御家人たちを滅ぼしていきます。源実朝はそれに対して意見することができず、宋(現・中国)へ渡るという夢を持つようになりました。しかしいくら船を造っても、それは北条氏の力によって海に浮かぶことなく浜辺で朽ち果てていきます。

建保7年(1219)1月27日、その日は雪が2尺(約60cm)ほど降っていました。朝廷から武士として初めての右大臣の位を受けたため鶴岡八幡宮に参詣した帰り道、養子にしていた兄・源頼家の息子である「公暁」が「父の仇」と討ちかかってきて暗殺されてしまいます。背後には源氏を滅ぼそうした北条氏の陰謀説・三浦氏による北条氏撲滅説・後鳥羽上皇の幕府転覆の策など色々ありますが、真相はわかりません。

源実朝は和歌の才能が高く評価されていて「世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも」という歌が百人一首に入っていますね。「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」という歌を亡くなる前に詠んでいたともいい禁忌の和歌といわれています。

摂家将軍の誕生

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源実朝には子供がいなかったため、彼の死によって、源氏将軍・河内源氏棟梁の血筋は断絶してしまいました。北条氏が将軍になることは他の御家人からの反発は必須なので、朝廷から「お飾り」の将軍を置くことが決定したのです。最初は皇族を将軍に迎えようと、有力御家人一同が連署した上奏文を使者に持たせましたが、後鳥羽上皇に拒否されてしまいました。そのために摂政・関白の家から迎えることとなったのですね。

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紫蘭