幕末の薩摩藩
調所広郷の財政改革で息を吹き返した薩摩藩は英主島津斉彬のもとで科学力・軍事力を強化します。また、斉彬は若手藩士を積極的に登用して活躍の場を作りました。斉彬の死後、弟の久光が藩主の後見役となり国父として薩摩藩を指導。幕末の激動期に薩摩藩のかじを取りました。幕末の動乱はやがて戊辰戦争という形で決着し新政府が誕生します。
島津斉彬の治世
1851年、斉興の隠居によりようやく藩主となった斉彬は藩の富国強兵につとめました。というのも、ヨーロッパ列強の艦隊が東アジアにも出没しはじめ外圧を感じざるを得なくなったからです。
科学技術を振興するため斉彬が手掛けた大事業が「集成館事業」でした。斉彬は鹿児島市の磯地区に反射炉やガラス工場を建てます。これらの工場群は集成館と名付けられました。
集成館には反射炉や溶鉱炉が建設され、造船や大砲の鋳造、ガラス製造、紡績、写真、電信など当時の最先端技術を研究。集成館は最先端技術の研究所としての役割を果たします。
その一方、西郷隆盛や大久保利通などを登用するなど若手を積極的に用いて藩政を活性化させました。しかし、幕府の後継者をめぐる将軍継嗣問題では一橋慶喜を推薦するものの実現できません。藩兵5000を率いて上洛を試みますがその直前に病死しました。
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国父、島津久光の動き
斉彬の死後、島津久光の子である島津忠義が藩主となりました。久光は藩主の父として薩摩藩の実権を握ったため国父とよばれます。久光の基本方針は朝廷と幕府が手を結び外国と対抗する公武合体論。公武合体論実現のためには暴走しがちな若手藩士をコントロールしつつ中央政局に対峙しなければなりません。
そのため、若手の中から西郷隆盛や大久保利通を登用します。もっとも、西郷とはそりが合わなかったようで事あるごとに対立しました。その後、久光は兵を率いて上洛。そのまま勅使とともに江戸に下向し幕府に文久の改革の実行を約束させました。
しかし、その帰路に薩摩藩士が久光の行列を横切ったイギリス人を殺傷する生麦事件が発生。イギリスが薩摩に攻め込む薩英戦争がおきました。その後、京都を中心とする幕末政局は混乱し公武合体は頓挫します。
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若手藩士の台頭と討幕・戊辰戦争
幕末の最終段階、薩摩藩の主導権は斉彬や久光が登用した若手藩士に移りつつありました。西郷・大久保らは薩長同盟を結び幕府の長州征討への協力を拒否したのです。
大政奉還によって慶喜が政権を朝廷に返す姿勢を示した後、朝廷は尾張・越前・薩摩・土佐などの藩主に上京が命じ、薩摩藩も出兵しました。この軍事力を背景に公家の岩倉具視、薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛らは王政復古の大号令をだし徳川慶喜を排除しようとします。
これに反発した旧幕臣(大政奉還・王政復古で幕府が消滅したため、幕府の家臣は旧幕臣とよばれます)らの動きを抑えられなくなった徳川慶喜は王政復古後に京都にできた新政府と戦争を始めてしまいました。戊辰戦争の始まりです。この中でも薩摩藩は中心的役割を果たします。戊辰戦争終結後、明治新政府では薩摩藩出身者が大きな影響力を持ちました。
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