幕末日本の歴史江戸時代

幕末の流れを決めた薩長同盟とは?わかりやすく解説

ペリー来航によって長きにわたる鎖国を破られた日本は激動の時代に突入します。後世、幕末と呼ばれる時代が始まりました。桜田門外の変や坂下門外の変で中心人物を失った幕府は迷走。かわって経済力や軍事力を高めた雄藩が歴史を動かします。もっとも活動的な雄藩である長州藩と強大な経済力・軍事力を持つ薩摩藩が同盟を結ぶことで討幕という大きな動きが加速しました。今回は薩長同盟についてわかりやすく解説します。

薩長同盟の背景

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井伊直弼が桜田門外の変で倒れて以後、幕府は自分の力だけで政治を行うのではなく、朝廷との連携を模索します。朝廷と連携して政治を行う考えを公武合体といいました。その一方、長州藩などでは天皇中心に政治を行うべきとの尊王論が強まります。広がる開国の影響と国内で激しさを増す意見対立、それを収拾できない幕府。幕末の政治はますます混迷を深めていきました。

開国の影響

日米修好通商条約を結んだ後、幕府はイギリス・フランス・ロシア・オランダとも同じ内容の条約を結びます。これらをまとめて安政の五カ国条約といいました。ちょうどそのころ、アメリカで南北戦争が起きた関係で対日貿易ではイギリスが貿易の中心となります。この貿易のことを居留地貿易といいました。

居留地から出ることができない外国人のかわりに日本人の商人が全国から物資を集めます。外国商人は日本商人から物資を買い付けて輸出しました。外国商人は日本産の生糸を買い付けます。生糸生産は一気に増やすことができず、品不足に陥りました。生糸の価格高騰は他の品物にも影響し、物価が全体的に高騰します。

開港からわずか10年で物価の基準となる米の価格は9倍にもなりました。これは庶民生活を直撃。外国商人に対する反感のもととなります。

公武合体と尊王攘夷

当時、日本の政治の在り方をめぐって二つの大きな考え方がありました。一つは公武合体論です。これは、公=朝廷、武=幕府がともに手を携えて政治を行おうとする考え方のこと。孝明天皇や薩摩藩主の父である島津久光、坂下門外の変で失脚する安藤信正などは代表的な公武合体論者でした。

尊王攘夷運動は天皇を敬い、外国勢力を排除せよという考え方です。三条実美ら一部の公家、長州藩などが尊王攘夷運動の中心でした。外国人への反感は各地で外国人襲撃事件へとつながります。

ハリスの通訳であったヒュースケンの暗殺事件。イギリス仮公使館を水戸藩脱藩浪士らが襲撃した東禅寺事件。高杉晋作らがイギリス公使館を焼打ちした事件などが代表例です。攘夷運動は日増しに高まっていきました。

幕府政治の混乱

開国は様々なトラブルを引き起こしましたが、幕府にはそれをコントロールする力はありませんでした。というのも、幕府自体が混乱状態にあったからです。日米修好通商条約の締結を決めた大老の井伊直弼は反対派を安政の大獄で弾圧。反発した元水戸藩士らの襲撃で命を落としました。桜田門外の変です。

井伊直弼のあとを継ぐ形で幕府を率いた老中の安藤信正は朝廷の力を借りて幕府の権威を取り戻そうと考えました。孝明天皇の妹である和宮と14代将軍家茂の結婚を実現させたのです。しかし、安藤のうった和宮降嫁という一手は尊王攘夷派の怒りを買います。その結果、1862年の坂下門外の変が起きて安藤信正は失脚してしまいました。

さらに、薩摩藩主の父である島津久光が幕政改革を要求。幕府は薩摩藩の力を考慮し、この要求を認めざるを得ませんでした。幕府は日本全体のかじ取りを任せられない状態になりつつあったのです。

薩長同盟の経緯

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幕府に攘夷を迫る長州藩。公武合体を目指しつつも攘夷の動きに巻き込まれる薩摩藩。目まぐるしく情勢が変化する中、両者は激しく対立します。いがみ合う両者を話し合いのテーブルにつけさせ、同盟へとこぎつけたのが坂本龍馬でした。龍馬はいかにして薩長同盟を成立させていったのでしょうか。

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