幕末日本の歴史江戸時代

800年以上にわたり南九州で力を持った「薩摩藩」島津氏の歴史をわかりやすく解説

江戸時代の薩摩藩

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関ヶ原の戦いで西軍についたにもかかわらず、薩摩・大隅77万石を維持した島津家は江戸時代を通じて南九州を治めました。幕府は薩摩藩を警戒し藩財政を傾けさせるような大工事を薩摩藩に命じます。こうした危機を乗り越えつつ、薩摩藩は幕末に活躍するための力を蓄えました。

薩摩藩の成立と琉球侵攻

関ヶ原の戦いの後、義弘の子で義久の養子となっていた島津忠恒が徳川家康への謝罪のため上京します。家康は忠恒に本領安堵を約束。ここに、薩摩藩が成立しました。1606年、忠恒は家康の名から一文字を拝領し家久と名乗ります。

1609年、薩摩藩は幕府の許可を得たうえで琉球王国に出兵。琉球王国を武力で制圧すると奄美諸島以北は薩摩藩領に組み入れます。この時、手にした奄美大島ではサトウキビの栽培を行わせ、莫大な利益を上げました。

そのうえで琉球王国の存続は許します。その理由は琉球が中国(明・清)との貿易を行っていたからでした。薩摩藩は琉球王国を通じた密貿易も行い藩財政を潤したのです。以後、琉球王国は薩摩藩と中国王朝の両方に服属し、薩摩藩への貢納を義務付けられました。

薩摩藩の危機となった宝暦治水

江戸時代中期の1754年、江戸幕府は薩摩藩に濃尾平野での河川改修工事を命じました。現在の岐阜県から愛知県西部にかけての濃尾平野は、木曽川・揖斐川・長良川の3河川によって形作られた平野です。これらの河川が合流、分流を繰り返す複雑な地形でたびたび洪水が発生していました。

9代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年にこの難工事を命じたのです。当時、薩摩藩も66万両に及ぶ巨額の借金を抱えている状態でした。巨額の出費と難工事を命じた幕府に対する反感は強いもので家臣も暴発寸前。その状態を抑えて工事をやり遂げたのが家老の平田靱負(ひらたゆきえ)でした。

工事の最中、幕府による嫌がらせともいえる堤防の破壊工作などもあり抗議の切腹をする家臣が相次ぎます。平田はその事実を隠し通して難工事を完成させました。薩摩藩は工事失敗による取り潰しだけは避けられましたが藩財政は悪化します。

高輪下馬こと島津重豪の治世

第八代藩主の島津重豪は11代将軍徳川家斉の妻である広大院の父として権勢をふるい高輪下馬と称されます。将軍家との姻戚関係があったため、強い影響力を持ちました。

重豪は学問に興味があったことでも知られます。薩摩藩の藩校である造士館は重豪によって設立されました。また、重豪は蘭学にも大変な興味を示し自ら長崎のオランダ商館を訪問。オランダ船にも乗り込んだといいます。

さらに、ローマ字を書くことができ、オランダ語や中国語を習得していました。シーボルトとも交流があったことも知られています。とても華やかな重豪の治世ですが、それにともなう莫大な出費はいよいよ藩財政を傾けてしまいました。重豪の隠居後に財政再建を目指した島津斉宣は緊縮財政を目指しますが重豪と衝突。斉宣は重豪によって隠居させられ孫の斉興が当主となります。

調所広郷の藩政改革

重豪による放漫財政により薩摩藩は破産寸前の状態にありました。当時の薩摩藩の借金は500万両という途方もない金額にまで膨張。これは薩摩藩の年収をはるかに超える金額で返済は不可能な状態でした。この破綻した財政の立て直しを命じられたのが下級武士だった調所広郷です。

調所は商人たちに無利子250年返済を宣言し債務を整理。そのうえで収入の増加をはかりました。まずは、琉球を通じた密貿易の活発化です。貿易による利益は大きなものでした。

次に手を付けたのが奄美諸島での黒砂糖の専売です。砂糖は南西諸島など限られた温暖な地域でしか生産されておらず、砂糖専売の利益も大きな収入源となりました。調所の改革により藩の財政再建は成功し、薩摩藩は幕末で活躍するための資金を得ることに成功します。

島津家を揺るがしたお由良騒動

島津重豪の死後、藩主の島津斉興が藩の実権を握ました。斉興は引き続き調所広郷を重用し藩財政再建路線を継続します。斉興の子のうち有力な後継候補は2人いました。一人は正室の子である斉彬、もう一人は側室であるお由良の方の子である島津久光です。

斉興は重豪の影響が強い斉彬よりも久光を後継者にしたいと考えていました。斉興は斉彬に藩主を譲ることを拒むかのように藩主の座に居続けます。斉彬派は斉興の隠居と久光を支持する家老の調所広郷失脚を図り、薩摩藩の密貿易を幕府に密告。調所を自殺に追い込みますが、このことに怒った斉興は斉彬派を徹底的に弾圧しました。

斉彬派の一部が斉彬の大叔父にあたる福岡藩主黒田長溥を頼って脱藩したことで事態はさらに拡大。黒田長溥は八戸藩主南部信順とともに幕府に裁定を求めました。これを受け、老中首座の阿部正弘は12代将軍徳川家慶とはかり、斉興を隠居させお由良騒動を鎮静化させました。

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