湊川の戦いの背景
1333年、足利尊氏や新田義貞、楠木正成らの活躍により鎌倉幕府は滅亡しました。京都に戻った後醍醐天皇は新しい政治である建武の新政を開始します。しかし、建武の新政は多くの武士たちにとって理想とは大きく異なる政治でした。建武の新政に失望した武士たちは足利尊氏を頼ります。尊氏は政治のあり方をめぐって後醍醐天皇と対決しました。鎌倉から京都を目指した尊氏は楠木正成らに敗れ、九州に落ち延びました。
建武の新政の始まりと、武士たちの不満
1334年、京都に戻った後醍醐天皇は建武の新政を始めます。後醍醐天皇が理想としたのは、天皇中心の政治でした。そのため、鎌倉時代に武士たちの「常識」となっていた様々な慣例が白紙とされます。
後醍醐天皇は土地をめぐる裁判で過去の判例にとらわれず、天皇の裁断である綸旨を最優先するとしました。それを聞いた武士たちは、自分たちの土地の所有権を綸旨で保証してもらおうと京都に殺到しました。申請に来る武士たちがあまりに多かったので、処理しきれなくなった後醍醐天皇は諸国の土地所有権認定を地方の国司に任せます。
武士たちが最も強く不満に思ったのは恩賞の配分でした。鎌倉幕府を滅ぼすために活躍した武士たちよりも、天皇側近の公家たちが多くの褒美をもらっていると考えた武士たちは建武の新政への不満を募らせます。
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足利尊氏と後醍醐天皇の対立
後醍醐天皇への反発が強まるのを見た北条時行(鎌倉幕府最後のトップだった北条高時の子)を擁立した旧鎌倉幕府派が信濃(長野県)で蜂起しました(中先代の乱)。鎌倉にいた足利尊氏の弟、足利直義は反乱の鎮圧に失敗します。
足利尊氏は、後醍醐天皇に自分を征夷大将軍に任じてくれるよう申し出ましたが、幕府の再来を危惧する後醍醐天皇はこれを拒否。足利尊氏は独断で関東に出兵します。尊氏は北条時行軍を打ち破り、鎌倉に入り、そのまま居座ってしまいました。
尊氏の動きを反逆とみなした後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏討伐を命じます。もはや、後醍醐天皇との対立は避けられないと判断した尊氏は新田義貞を箱根竹の下の戦いで打ち破り、そのまま京都へと進撃しました。
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尊氏の挙兵と九州敗走
箱根で新田義貞に勝利した足利尊氏は勝利の勢いに乗って京都に攻め上りました。後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃れ、味方の援軍が来るのを待ちます。比叡山に逃げ込んだ後醍醐天皇を救援するため、奥州から北畠顕家が来援。比叡山で後醍醐天皇を守っていった楠木正成、新田義貞らの軍勢と一緒に足利軍を挟み撃ちにします。
北畠・楠木・新田軍は京都を占領していた足利軍を打ち破りました。尊氏は丹波国の篠村八幡宮で体制立て直しを図ります。体勢を立て直した足利軍は摂津豊島河原の戦いで、新田軍と戦いました。しかし、尊氏軍は新田軍に敗れてしまいます。
京都周辺の戦いは不利だと悟った尊氏は赤松則村らの進言を受け入れ、本格的に体勢を立て直すため九州に落ち延びました。
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湊川の戦いの経緯
摂津豊島河原の戦いで敗れた足利尊氏は、九州北部で少弐氏や大友氏の支援を受けることで三度、体勢を立て直します。九州で後醍醐天皇方の武士たちに勝利した尊氏は、京都に向けて軍を進めました。尊氏東上の知らせを聞いた楠木正成は後醍醐天皇に必殺の策を献上します。しかし、後醍醐天皇は側近の反対もあって正成の策を採用しません。圧倒的不利な体勢で楠木正成が尊氏軍を迎え撃った場所が湊川でした。楠木正成は湊川の戦いに敗北。後醍醐天皇への忠節を守って亡くなりました。