南北朝時代室町時代日本の歴史

楠木正成が後醍醐天皇を守るため足利尊氏に挑んだ「湊川の戦い」を元予備校講師が分かりやすく解説

北朝が分裂した観応の擾乱

尊氏が開いた室町幕府の中心人物は2人いました。ひとりめは弟の足利直義。調整能力に優れていたため、尊氏の下で政治を担当します。もうひとりは高師直。尊氏配下の勇将で、戦で抜群の強さを見せました。この二人の仲が徐々に悪化します。

1349年、二人の対立がピークを迎えました。足利直義が高師直を排除しようとしたため、師直が先手を打ってクーデタをおこします。直義は尊氏・師直と対決する決意を固めました。

1350年、足利直義は京都を脱出。観応の擾乱がはじまりました。戦いの経緯は非常に複雑なので結論だけ述べると、足利直義、高師直はともに戦いの渦中で命を落とします。これにより北朝が混乱したため、南朝は息を吹き返しました。

南北朝の合一

南北朝の騒乱はすでに50年以上の長きにわたって続いていました。室町幕府の将軍は尊氏の孫である足利義満となっています。南朝は代を重ねるごとにどんどん弱体化していました。一方、室町幕府は足利義満による守護大名抑圧がうまくいき、力を強めます。

一つの転機となったのは南朝の長慶天皇の退位。強硬派だった長慶天皇が第一線を退いたことで、南朝内部にも和平の機運が生まれます。同じころ、河内の千早城が陥落し、楠木氏の本拠地が失われました。もはや、南朝に北朝や室町幕府軍と戦う戦力は残されていません

これをチャンスと考えた足利義満は南朝に和平を持ち掛けます。1392年、足利義満が南北朝の合一をあっせん。南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り渡し、南北朝の動乱は幕を閉じます。湊川の合戦から50年以上の歳月が過ぎ去っていました。

楠木正成をまつる湊川神社

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湊川の戦いが行われた兵庫県神戸市の一角に湊川神社があります。後醍醐天皇の為に命を懸けて戦った楠木正成は、江戸時代の朱子学で忠臣とたたえられました。正成への信仰は幕末期に一段と盛り上がります。1868年、尾張藩主徳川慶勝らの要請を受けた明治天皇は楠木正成を祭神とする湊川神社の創建を命じました。境内には正成ゆかりの品などが収められています。興味がある方は、ぜひ、訪ねてみてはいかがでしょうか。

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